胡桃の庭
待ち人 1
既婚者にはわかる。どんなステキな結婚にも必ず?来る
ナーバスシーズン。
「待ち人」
松野胡桃
高浜弘子、それが彼女の名前だった。ここで彼女を見
かけるのは4度目だ。
確か四国から上京してきた娘だとこぼれ声に聞いた。
僕は興味本位で入学した仏文科の教室で一緒に授業を受
けた。面と向かって会話したことは一度もないのに四年
も経った今でも彼女のフルネームを憶えてるのは自分の
ことを「弘子」と呼ぶ癖があったからだ。その声ととも
に耳にこびり付いていた。
僕は大学を卒業して二年で人も羨む嫁をもらい、現在
二人暮らしだ。お互いに仕事で帰りが遅くなりがちで、
平日はしょっちゅうこの公園で嫁の車を待つ。
一人で家に帰るより、嫁さんの車に乗り込んで帰るほ
うが夕食を一人で摂るよりましだ。そのまま外食ばかり
になってしまいがちでもある。
たいがい僕が待たされる。嫁は慢性的に時間にルーズ
で予告した時間に来ないのが普通である。ひどいときに
は2時間も待たされる。これはどうしようもない。言っ
て聞かせて直すには相手は大人になりすぎた。
仕事は雑誌編集のようなことらしいが、詳しくは知ら
ない。僕の百貨店勤務にしても何してるのかよく分かっ
てないだろう。干渉しないというより、正直、説明が面
倒なのだ。
すれ違ってはいないと言いたいが、実際はすれ違って
いるかもしれない。夫婦だからという暗黙の信頼関係を
お互いが持っているに違いないが、実際、形はあっても
実態が築かれたわけではないと結婚してみて思う。
ストレートロングヘアの嫁さんが美しい笑顔を向けて
「待たせてごめんね」
と言って車に乗せてくれるのを友人は羨やむ。二十分で
着くという連絡が結果、二時間であれば、どんなに美し
い顔が迎えに来ても全く有難くない。
この車道脇の公園で弘子を見かけるようになったのは
一週間程前からだ。彼女は野暮ったくて子供っぽいとい
う印象だったはずが、白いミニワンピースが色っぽく見
えた。時々通る車のヘッドライトが一瞬、女性の体をワ
ンピース越しに映す効果か。化粧もしているようだし、
髪も染められている。しかし、擦れた感じではない。彼
女の持つ基本的な雰囲気が学生時代から変わらないもの
を放っている。
僕はヘッドライトがまわる度に彼女を見ただろう。し
かし、弘子のほうは全く僕を気にしていない。もの憂げ
に立ち尽くし、周囲に気を取られる様子は微塵もなかっ
た。
誰かと待ち合わせか、十分、二十分と過ぎるうち、恋
する女はいつまでもじっと待てるのかと感心した。僕も
待たされているが、少なくとも弘子に気が行ってしまう。
だが、彼女は電話するでもなく、見回すでもなく、ただ、
じっと待っていた。
僕はストレートロングヘアの嫁があと三分で着くと連
絡してきたため、ベンチから背の低い並木の向う、車道
側へ出てしまった。弘子の待ち人はいつ来るのだろうか。
* *
2回目は二日後だった。僕はその日、1時間待った。
しかし、弘子は先に来ていて、僕が去るまで佇んでいた。
女が一途に待っていられるのは男に違いないと思った。
彼氏、早く来るといいなと無言で声をかけた。相変わら
ず、物憂げな待ち姿は長らく続き、待たせる男を憎く思
った。
フリル付のブラウスにAラインスカートが風にゆれる。
それだけで弘子は美しかった。十人並みの器量が絶品に
見えた。美しいとはこういうことだと嫁に向かって言う
ように思った。
嫁さんはパンツではなく、常にタイトスカートだ。フ
ォーマルもカジュアルもひざ頭程度で、決して裾が風に
揺れたりしない。それでも風が吹くと階段ではスカート
を抑える。それは女性的なしぐさではない。最近、感じ
たのはやや潔癖がかった性格ということですべての嫁の
しぐさの辻褄が合うということだ。
嫁さんは美人を鼻にかけるようなしぐさが妙に似合う
のだが、それは潔癖症の置き換えに過ぎない。潔癖な上
に臆病で強がりで、まさにお嬢様育ちそのものだ。タイ
トスカートが似合うんじゃない、タイトスカートに徹し
ているだけだ。女性的でありたいことと脚への自信と臆
病が決して風に揺れないタイトスカートに集約されてい
る。
A
[庭に帰る]