胡桃の庭
待ち人 4
そのタイミングというものは実に隙がなく、計り様がな
い。
「やぁ、久しぶりだね。見覚えがあると思ってたけど、
やっぱり高浜さんだった」と、言うのが自然か。いくら
なんでも今はじめて気が付いたようには言いにくい。し
かも、彼女は僕が嫁の車に向かってそこを去ることくら
い知っているかもしれなかった。もっと面白い推測もあ
る。引っ込み思案な彼女は僕に声を掛けてもらいたくて
目いっぱい彼女なりに魅力を発散しているのだ。いや、
そんなはずはない。などと思いが遊んでいるうちに、初
老の男が彼女に近づいた。あいつが彼氏か?
「東新町はこの先ですか?」
「いえ、私、ここはあまり知らないんです」
男はうなづいてそのまままっすぐに歩いて行った。
少し大人びてはいるが憶えのある声だった。「私」か。
「ひろこ」って言ったらそれをきっかけに話し掛けても
よかった。もう、彼女は彼女なりに大人になったってこ
とだ。
彼女は小さくため息を漏らした。待ち人ではなかった
落胆か。
それにしても美しい女らしいため息だ。そのまま目を
閉じているのが苛つきに見えないからいい。
携帯にメールが来た。「あと5分以内に着くよ」とい
う嫁からのものだ。さすがにこういう場合は嫁でも遅れ
たことはない。結局、弘子に話し掛けることなしに今日
も終わるという落胆が手持ち無沙汰を呼び起こしたのか
「了解」といつもは送らない返事を送った。運転してい
る嫁さんには信号停車まで読まれないだろう。
気が付いたら弘子の姿がなかった。あわてて見回した
が、見渡せるところに姿はなかった。建物に入ったか、
車道側に出て植え込みの陰になったのか。もしかしたら
待ち人が見られたかもしれないのに。そのときの一瞬の
表情を楽しみにしていた自分が分かった。
事故は直後に起こった。車の短いブレーキ音、悲鳴。
僕は座っていたベンチを飛び越えようとして躓いて腕に
痛みを覚えながらも傷を確認する余裕もなかった。
道路側に飛び出すと、目の前に車は止まっていた。
ドアから飛び出して血相を変えているのは僕の嫁だっ
た。その手前の路肩には枯葉色のワンピースが横たわっ
ていた。駆け寄ると、真上から見回した。そうこうして
いるうちにアスファルトに血が見え始めた。
「大丈夫か」と言ってみた。
「……」と、彼女は何か言って開けかけたまぶたを閉じ
た。それっきり動かない。
そのときになってようやく恐怖を感じた。嫁は近寄る
でもなく立ち尽くしている。
「公子、救急車!」と言ってすぐに僕が呼べばいいんだ
と思い直して携帯電話を取り出した。
「事故です」とか言いながら、自分もここの地名すら思
い出せない状態だった。駅名と公園とで何とか伝わった
だろう。
「高浜!」と叫んでみた。「弘子さん!」とも言ってみ
た。彼女は幸い小さく息をした。
* *
警察の質問攻めはかなり長かった。それにも増して嫁
はなかなか解放されなかった。
僕らにとっては弘子の様態が気がかりで調書の筆をし
ばしば止めてしまったに違いない。
深夜、僕らの元に弘子が頭部の精密検査が必要なもの
の軽い傷で済んだことが告げられた。明日、病院に行く
ことは構わないらしい。警察では弘子からも少しは質問
の回答を得たらしい。
僕と嫁さんは我が家に帰り、とにかく寝ることにした。
「夢遊病よ絶対に」と、嫁は元気に言った。被害者はこ
っちだと言わんばかりの迷惑ぶったことを言ったようだ。
「あんなの飛び出されたら誰だったら避けられたの?」
「善意の目撃者が携帯片手の君を見ていたんだから、言
い逃れはできない」
「誰よ、別に要らない返事メールくれたのは」
「僕のせいか」
「私のせいなの?」
嫁の苛つきは治まらない。もう少ししょげてもいいだ
ろう。人が死ぬかもしれなかったのだ。まったく美しく
ない、できれば見たくないと思った。できれば別の部屋
に行ってほしいとさえ思った。今日の彼女はいつもより
増しておかしい。
「彼女は夢遊病じゃないよ。それに、君は携帯電話を持
っていた」
D
[庭に帰る]