胡桃の庭
待ち人 5
「彼女は夢遊病じゃないよ。それに、君は携帯電話を持
っていた」
「そう、そういうこと言うの。私の味方じゃないのね」
これからのことの不安や弘子の様態のことはお互いの
問題として取り組まなくてはならないのにそういう前向
きな話にならない。公子はこんな女だったか。
「自分で歩いて道路に出たと思うって言ったんでしょ。
そんな曖昧なことだから自殺願望とかいろいろ考えられ
るんじゃないの?」
「いい加減にしてくれないか。あの子は考え事をしてい
た。だから、車は悪くないということになった。警察も
彼女も誰も君を責めてない。あえて言うなら、君が僕を
責めてる」
「あの子?あなたが肝心なことを言わないからよ。私に
対してはどんな労わりの言葉を掛けてくれた?」
「労りが必要には見えなかったがね」
『今日ほど君が醜く見える日はない』とは声にならなか
った。
お互いに帰ったら寝ようと合意していた。その気持ち
は変わってないはずだ。
「僕は疲れてるし、君も疲れてるだろう。こんな状態で
何を話しても無意味だ。今日のところは彼女が無事だっ
たということで一安心しようじゃないか。僕は休むよ」
「あなたは何もわかってないわ」
「そういう言い方に何て答えられるんだ?小崎家の小さ
なピンチだ。賠償金だの保険屋だの……どんなふうに転
がってゆくか、二人のものいいに因るところも大きい。
怒ってるんなら怒るなとは言わない。とにかく、寝かせ
てくれ」
「冷静なのね。いつもそう。人が飛び出してきたときの
怖さ、ぶつかったときの怖さ、まだ精密検査が必要だと
いう怖さ。あの人が悪いわ。でも、怖かったんだからね!
私が眠られるようにしてほしいものだわ」
しかし、怖がっている態度ではない。ただ、怒ってい
る態度だ。美人が醜く見える典型の慰めや労りを拒絶す
るような態度だ。強がっているようで健気じゃない。僕
のそういう思いは声にならず、溜め息になった。
* *
フロアの詰め所から看護婦さんに面会を要求してもら
うと、叔母さんという人が近くの病室から出てきた。
弘子は昨夜、嘔吐して眠った後、早朝に目覚めるまで
何ともなかったらしい。今は痛みが鈍く襲っているが、
意識ははっきりしているとのことだ。
比較的若く見える叔母さんは四十前かもしれない。表
情が曖昧で、嫁を見る目は憎みたいが憎めないといった
ところか。
「本人が言うほど意識が確かかわかりません。事故のシ
ョックもどんな形で出て来るか。今日はお話しないほう
がいいかと思います。姉が、弘子の母ですが、午後には
着きます。検査もありますし、弘子が落ち着いたあとに
していただいた方が」
「意識がはっきりしていないということですか?」
「本人は大丈夫と言っていますが、私にはどうも……。
ですから事故の事とか話せないかと思います」
僕は嫁と顔を見合わせた。嫁は不安げな顔で見つめ返
すばかりだ。久々に見せるか弱き顔は美しかった。
「その、叔母さんが気になっていることは何でしょうか?
意識が確かでないとと思うのは」
「私にはそうとしか。ここで弘子のことをどうこう言う
ことはできません。ましてや加害者の方にお話し、した
くないことです」
「私は」と嫁が言った。僕と同じようにカチンときたに
違いない。「加害者ですか?」
「やめろ」と嫁の肩に手を置いたが嫁は独り言のように
うつむいて「目の前に飛び出されていい迷惑よ」と言っ
てしまった。
これだから美しくない。すべてにおいて美しく振舞え
ないなら美人なんかやめろと言いたい。
「すみません」と、僕は言った。「飛んできたのは、二
人とも仕事を持ってますし、手につかない状態で居られ
ないからです。こちらも精神的に落ち着きたいので」
「でも、今はこちらが落ち着いてませんし」
「それもそうですが。……ちょっと気になることがある
んです。会えないんなら、叔母さんに尋ねたいんですが
E
[庭に帰る]