胡桃の庭
待ち人 6
「それもそうですが。……ちょっと気になることがある
んです。会えないんなら、叔母さんに尋ねたいんですが」
「何でしょう」
「ずっと忘れていたんですが、僕は弘子さんとは大学で
一緒に学んだんです」
「それは聞いてます。弘子は警察から名前を聞くまで分
からなかったみたいで」
「やっぱりそうでしたか。彼女を極最近から見かけるよ
うになったんです。ついつい、声を掛け損ねてしまって。
人を待っているようでした。あまりにもただ、じっと待
っている姿が気になって、気になりながらも余計に声を
掛け辛くなって。実際、そうだったのか、そういうこと
について何か聞かれていたら、教えてください」
僕は何を言ってるんだと思った。確かに気になること
はある。しかし、ここでそれを分かってもらうことは難
しい。事故と関係ないことを言い出す僕に叔母さんも嫁
も軽蔑の目を向けると思った。実際、沈黙があった。
「ボーイフレンドだったの?」
「え?いえ、まったくそういうことはありませんが。何
年も見てなかった人を突然毎日のように見るようになっ
て、しかも様子がとても真剣なような……」
言ってしまったが、「それが何か?」と言われたら引
き下がろうと思った。
「大学ですか」と、叔母さんはちょっと考える風。
「事故と関係があるかもしれませんし」と言ったのは嫁
だった。僕はあっけにとられた。嫁は興味深げに僕を見
つめた。
「矢島先生、ご存知?」と叔母さんは顔を上げて言った。
「あ、ええ」と、反応があったことを予想外に思いつつ
答えていた。
「彼と結婚するつもりだったんですよ、あの子」
「え?」と、さらに不意を付かれた。
「そんなこと全然、卒業してからなんですか?」
「さぁ、間際くらいからと聞いてるけど。私は半年前に
聞かされて、そのあとお会いしたこともあります。姉に
は、親には言ってないみたいだけど」
「あ、じゃぁ矢島先生を」と、言いながら冷たい仕打ち
をする人には見えないが弘子のことを美しく思ってない
のか等と思った。
「そうだったんですか。毎日のように待ってたんですよ、
昨日で弘子さん見るの4回目でした」
「そうですか」叔母さんは独り言のように「本当に待っ
てたんですね」と言う。
「矢島先生もひどいな。卒業生と付き合うのはいいけど、
ずっと待たせるなんて。僕は見てて可哀相でしたよ、待
たされる辛さが分かりますからね。共にあそこで人待ち
しただけで、見えない相手を腹立たしく思ったもんです。
まぁ、彼女は腹を立ててたかどうか。あ、もしかして僕
が居るの知って、顔出し辛かったのか?僕は全然気にし
ないのに。彼女も卒業して4年も経つし」
「そうだったんですか」と嫁も言った。
「好きな人が来ないのは辛かったでしょうね」と言う。
なんで公子にそれが言えるかなと僕を待たせている張
本人を見返した。
「ええ、辛かったと思います」と、叔母さんまで思いつ
めたように鬱向く。
「夢遊病のようにふらりと車道に出てきた所を脇に止め
ようとしていたあなたの車に当たったと、警察の方から
聞きました。あの子も曖昧な記憶ながら、そうだと言っ
てましたし。実際、そうだったんでしょう。加害者と言
ったのは失言です。御主人の話を聞いて、本当に待って
いたと思うといじらしいです」
「あなたがちゃんと言ってくれないから、いろいろ思っ
ちゃったじゃない。変に取り乱したり」と、嫁が言う。
その小声の顔は美しかった。僕の戸惑いは治まらず、
話の展開についてゆけなくなって来た。
「でも」と、叔母さんはつづける。「矢島さんは来ませ
んよ」
「叔母さん、立ち話しないで入ってください」と、側の
病室の扉越しに弘子が覗いている。パジャマ姿で頭と腕
に包帯を巻いている。
「いいの?」と、叔母さんが言うのには答えず、彼女は
僕らにお辞儀して扉を開けたまま室内に戻った。
病室は3人部屋だったが、患者は彼女だけだった。僕
らはそこで矢島先生が1月前に亡くなったことを聞かさ
れた。
「悪性脳腫瘍で、2月入院してたけど、突然」と、弘子
は淡々を装うように話した。
「ごめんなさい、小崎さんにも叔母さんにも迷惑掛けま
した。私は事故に遭っておかしくなってるんじゃないん
です。私は奥さんの言うように夢遊病のようだったと思
います。だから、悪いのは私です」
F
[庭に帰る]