胡桃の庭
待ち人 7最終
「ごめんなさい、小崎さんにも叔母さんにも迷惑掛けま
した。私は事故に遭っておかしくなってるんじゃないん
です。私は奥さんの言うように夢遊病のようだったと思
います。だから、悪いのは私です」
「ありがとう」と嫁が言った。
「とっても怖かった。人が私の車にぶつかって倒れるの。
そしてすぐに、賠償のこととか、亡くなったらどうしよ
うとか、いろいろ思って怖かった。ごめんなさい、新婚
が顔を出してこんなこと言ったら嫌味だけど、この人に
どんなに迷惑掛けるかと思うと。とっても怖かった」と、
公子は涙を拭き始めた。その嫁もやはり美しかった。
「いい奥さんね、小崎君」
僕は弘子の言葉に素直に合意して頷いていた。
そうか、二人の幸せを奪うものへの憎しみと不安、相
手の幸せを奪うことへの不安。それに共鳴するものを僕
から感じられずに怒ってたのか。『肝心なことを言って
ない』とは弘子との事を変に勘ぐったのか。僕の思わな
い事を思っているものだ。
「私もこれくらいで済んでよかった」と、弘子は続ける。
「そして、これくらいのことがないと、彼氏を亡くした
傷が癒えないんだわ。そう思えるのが私らしい。公園で
ね、待ち合わせしたのが初めてのデイト。その約束の声
を最近、夢で聞いたの。自分で作った夢の中のこととわ
かってて、毎日待ってた。あれっきり何も無くて、待つ
ことであの日に戻れるわけでもないし、もうやめようと
思った。でも、昨日、あのとき、車道を渡ったらこっち
に来られるよって彼の声を聞いたの」
誰も反応できない少しの時間が過ぎた。
おばさんの戸惑いはこういう発言のことだろう。弘子
は学生時代のでも、昨日までのでもなく、少しだけ大人
びて見えた。無駄だと分かってて彼のために可愛く見え
る装いで待っていたのか。
「幻覚を聞くようになったら病気よね。夢遊病だったの
よ。でも、覚めなきゃって思わないとね」と、弘子は言
って涙をこらえてる風だった。
少し間を置いてゆっくり続ける。
「事故に遭って道に倒れたら、彼は大丈夫?と訊いた。
私は先生って言って手を伸ばそうとしたけど、彼はさよ
ならって感じで行ってしまった。そのとき初めて、ああ、
彼の未練は終わったんだなと感じた。少しだけど、彼が
居なくなったことを受け入れられた」
『大丈夫か』と言ったのは僕だ。弘子は先生と言ったつ
もりだったか。それを今、言う気にはなれなかった。
公園で声を掛けていたら弘子は打ち明けてくれただろ
うか。だとしても、僕に何ができただろうか。待つのを
止めろと言えただろうか。
静かな時が流れると、叔母さんが「ほんとうに意識が
はっきりしているのか疑う気にもなりますよ」と、僕に
向かって言った。
「もちろん、信じてますよ私は」と、弘子に向かって言
った。
「わかった、そうだったのか」と僕は言っていた。
「先生も意地悪だな。きっと僕と公子のことを嫉妬した
んだ。だから公子の車を選んだのさ」
誰もが何を言ってるの?という顔をしている。
「僕は事故の前の日、矢島先生の声を聞いたんだ」
『え?』と弘子は真剣に見返してくる。
「弘子にアタックしろよってね」
弘子には講義中の出来事を思い出せるはずだ。
「公園の君は美しくてね、見とれてたんだ。だから矢島
先生は僕に思いを託そうとしたのさ。自分には幸せにで
きないと諦めた上で、気があるなら小崎、何とかしてや
れってことだ。でも、僕が美人の嫁さん持ちだと分かる
と、むくれちゃってさ、弘子さんに手招きしてしまった。
この嫁さんが人を轢き損ねたけど、矢島先生はめいっぱ
いの意地悪をしたんだ。わかる、わかるんだ。分かるよ
先生の気持ち」僕は言いながら胸がいっぱいになってい
た。
「公園の君は美しかった。矢島先生は本当に無念だった
んだ」
そう言うと叔母さんに向かって「こういうことはある
んですね」と言った。
すると、公子がシクシク洟をすすった。
「おい、君が泣くとこじゃないんだよ」と言いながら僕
はロングヘアを撫でていた。
−待ち人−
胡桃
@
[庭に帰る]