胡桃の庭
『わたしのしんせかい』 3
私は悪い子になりたくないと思ったのか、そんなことが
あってから散歩にも出なくなりました。
ジェニーはまだ幼かった私を教会へつれて行き、ピア
ノの演奏をさせました。突然、沢山の友達ができた日で
した。ただ、それまで1番上手だと言われていたステラ
は御機嫌斜めでした。ステラは理科が苦手で私は社会が
苦手だったので、色々と勉強のことで助けあうことを覚
えると、2人は掛け替えのない友達同士になりました。
−−日本をこの足が歩いてる。この国の人々が優しい
かどうかまだ知らない私は、とりあえず用心して、オド
オドしながら雑然とした小路を歩きました。それがはな
はだしかったのか、子供も大人も時々じろじろこっちを
観察します。それでどう思ったのかは悟らせず、ただ真
剣な面持で通り過ぎます。
若い女の人は短い足をチョコマカ動かしながら突進す
るように歩きます。でも、女の子は数人固まるとずっと
ゆっくり歩いています。そういう子を見ると救われるけ
ど、大人たちは皆、顔中にサングラス掛けたみたいに表
情がわかりません。何か凄い悩みをかかえていて、その
ことを誇示するように、競いあっているように見えます。
勝手知らずの少女がきまり悪そうに、それでも仲間入り
しようとしていること等、万に一つも気に掛ける余地が
ないことを宣言しているように見えます。
子供ながらに、ここは本当に自由の国なのかとすら感
じました。
商店の並ぶ通りに出ると、とても賑やかで、少年や少
女達も結構居て、楽しそうです。なのに私は一人で敵地
に乗り込んだスパイのような気がして馴染めません。
通りにはジングルベルが流れていて、初めは世界どこ
もクリスマスだなぁと、音楽に乗って歩いたものの、す
ぐに嫌になりました。あの姉妹と同じような少女達がわ
んさと擦れ違って行き、ジングルベルは長い異教徒の祈
りのように繰り返され、およそ厳かな楽しみなどなく、
秩序の美の感じ様のないこの通りを、カレーソースをか
けたシュークリームのように感じました。そう考えると
途端に吐き気すらしてきます。
勿論、日本にイメージしたとおりの、サッサカ歩く忙
しそうな学生も結構居ます。彼等はこのどこまでも追っ
て来るジングルベルを心地よく思っているのでしょうか。
くたびれて立ち止まると、耳を切るような、パン!と
いう音に思わず壁際に身を寄せました。一瞬、ステラの
「日本の治安は世界1」と言う言葉を疑い、次ぎの一瞬、
パーティー用のクラッカーを鳴らした人を見つけ、そし
てすぐに、何事もなかったように道行く人々が怖くなり
ました。私はこの人ごみが一種類の人間で、私だけ別の
種類という感覚に陥りました。
クラッカーの音はそれからずっと耳に残り、胸のドキ
ドキもなかなか治まりません。おののいている私がわか
るのか、私を見て通り過ぎる人が増えました。私は少し
だけ栗毛かかった黒髪で、目は茶色です。日本人はみん
な同じ民族――これでハーフだとわかるのでしょうか?
異民族に見えるのでしょうか?
でも、この人達が敵意を持っていないことを私は知っ
ています。それなのにとても怖くなってきました。
大通りに出ると、氾濫しそうな大河のように車が流れ
ています。騒音と焼けたガソリンの臭いはジングルベル
と同じ嫌気を感じさせますが、あのクラッカー以来のと
きめきのせいか車の流れが、所構わず暴走する野獣の群
れに見えて、身震いするようです。
信号がグロテスクな赤色を放つと、野獣の群れは治ま
り、号令をかけたように人々が流れ出て行きます。それ
も私には野獣に見えた気がします。私は一気に、車の方
を見ないようにして大通りを渡ったと思います。それ等
が襲ってこないことを私は勿論知っています。でも、怖
いと感じてしまうことはどうしようもありません。
C
[庭に帰る]