胡桃の庭
『わたしのしんせかい』 5最終
出たのは明るい通りで、たぶん「♪ソリ滑り」がバッ
クに流れていたと思います。私は髪を整え、深呼吸して、
今、何をすべきかを考えようとしました。
歩き始めると、さっきおう吐していた人が別の人と並
んで楽しそうに歩いて来ます。つい、今、苦しそうだっ
た人が…。私はつとめて理解しようとせず、ただ、ママ
の所へ帰る事を考えようとしました。ただ、カナダに捨
てて来た車椅子に座りたいと思いました。
私はなぜかその先にホテルがあることを信じてまわり
を気にせず、黙々と歩きました。不協和音で主は来ませ
りと合唱しながら突然通りに現われる大学生風の男達に
出くわすと耳をふさぎ、ドレスにジーンズの奇妙な女性
を見ると目をふさぐ始末。
異国の映像の世界に迷い込んでただただ驚くばかり…
…。この寒い季節にミニスカートの女性が立っていたり、
明らかに日本人なのに黄色く髪を染めたお姉さんがいた
り……。
「お嬢さん、どうしたの?」
まだ若いその人は目の前でそう言ったと思います。私は
その人を見ないようにしていました。熱があるのか考え
る力がありません。
「迷子?」
どうしてそれがわかるのか……たぶん目に涙があったの
だと思います。
「そのホテルだったらたぶんあっちだ、いっしょに行っ
てやろう。クリスマスだろうと本格的な1人身は暇でね」
側の扉が開いて誰か出ようとしたと思います。その時、
パァン! というクラツカーの音と叫ぶような笑い声が
奥から襲って来ました。私は叫んだか、その人に何か言
ったのか覚えていません。ただ、逃げ出したのを知って
ます。私は普通に走れたのでした。
気が付くと大河のような大通りに出ていました。深呼
吸して、改めて美しいネオンを見ると、夢の国へ迷い込
んだのだと信じられるようでした。目を覚ますといつも
の部屋でベッドの上なのかもしれない。
「お嬢ちゃん」と、大人の声でした。そのおじさんは美
しい包をぶらぶらかかえて、楊枝をくわえ、お酒の臭い
をまき散らし、ツリーの描かれたキラキラのとんがり帽
子をかぶっていました。私は目をそらして泣きだしたと
思います。その時、通りをパラパラパラパラ!と何台か
のバイクがクラクションで脅迫してきたのでした。私は
座り込んだかもしれません。
私は誰かに連れられ、ホテルに帰ったようです。涙を
拭こうとしてハンカチを無くしたことに気が付いたこと
だけを鮮明に覚えています。
次の日、ベッドの上でアリスと一緒にふさぎ込んでい
た私に、パパは「帰りたいんだね、よーくわかるよ」と
言いました。驚いたことに、悩める原因はその一言で十
分でした。
私のピアノに嫉妬したステラの不愉快な顔を思い出し
てはニッコリして涙していました。
昼を過ぎて、私達はホテルを出るためにロビーへ出ま
した。表通りを暴走する単車の音にハッと目を向けると、
あの、ヴァイオリンケースを持った男の子をそこに見つ
けました。
立ち止まっていた男の子はデリケートなヴァイオリン
の音とは別世界の音をにらむように見送り、間もなく右
足で空を蹴ると、歩み始めました。
そうか、いろんなひとがいるんだ。バイクに乗りたい
人、ヴァイオリンが弾ける人、ホテルに送ってくれた人、
パチンコが面白い人、ジングルベルでクリスマスを感じ
る人、クラッカーの音が必要な人・・・私は突然、冷静
になってゆくのを感じました。そう言えば……昨日、空
自信が敗れ、ただの弱虫だと気づき、泣き顔で周りを無
視してがむしゃらに歩いた私も……この国の人でした。
『わたしのしんせかい』
胡桃
@
[庭に帰る]