胡桃の庭
脱 皮 10
問題の整理は自然と始まりました。
とても傷ついていることの原因は暗いデブという言葉でした。暗いという
印象はたしかにあったと自覚しています。考える時間が長くて優柔不断で、
速い会話が苦手でもあるし、最近の私は女性を無意識にも捨てていたところ
があり、普通の女子高生のなかに溶け込んでいなかったようです。でも、言
葉としてぶつけられるほど暗かったとはショックです。
肥っていることは一目瞭然で、承知していたことです。でも、中学2年頃
からのことで、まだちゃんと受け入れていなかったのでしょうか。割り切れ
ないままだから、女を捨てる意識が先行していたのでしょう。自分の身が人
目にどう見えているかも疑わしいまま、憧れの辻上君に宣告されて傷つきま
した。
そのとき、私は体質だからどうしようもないと思ったものです。努力の仕
様がないことを卑下するなんてひどいと、思いつつも、彼を憎むより、我が
身を憎みました。初めてデブと冗談ではなく真っ正直に言われました。これ
ほど傷つくものかとあきれるほど涙がこみ上げてきました。
気が付くと、いつもとは違う道をどんどん歩いていた。バス通りの筋違い
を家を目指して歩き、ふと、本屋の前で立ち止まった。
整理しなきゃ大変なことになるという予感が私を本屋のなかに招いた。少
しでも落ち着いて現実を冷静に受け入れないと感情につぶされるという恐怖
があった。週刊誌を手に、後でゆっくり傷つくことにして、事態の消化に務
めた。
もはや好意すらもてないと思う私は、それでも辻上君への憧れを惰性のよ
うに捨てられない。でも、憎い。私が罵られるのはなぜだろう。あの人こそ
勘違いだ。私は好意を持っていたのに、何も彼に対して悪いことをしたわけ
じゃない。いやなら、ごめんと一言あってお断りしてくれればいい。そもそ
も不釣合いは承知していたのだから。あそこまで言うのは男らしいとは言わ
ない。怒りが強まる前にそのことは考えないようにした。
あの手招きはなぜ?なぜ私だとわかったの?MIDORIのメモ用紙を買
ったのは史子が知っている。それは結びつき様がない。教室は本当に狭い世
界だと思った。
辻上君の苛立ちは何だろう。あんな人じゃないはずだ。何か迷惑なことが
起こったのか。第3者からの情報がゆがめられて届いているのだろうか。
じっとしていることが苦しくなり始めて、本屋を出て、がむしゃらに歩き
始めた。
自分の部屋に入ってしまったら気が滅入って思考放棄になりそうで、なん
とか気晴らしをしてカモフラージュできる状態で帰宅する必要があった。
いつもの公園の近くまで来ると、歩道橋を上った。上から見る大通りは嫌
な排気ガスの工場のように見えて気休めにもならない。
飛び降りて車に撥ねられると即死だろう。暗いデブで済みませんでしたと
遺書を残したら、辻上君を懲らしめることにはなるだろう。
幸い、感情の殆どは悲しみよりも怒りだ。そういう行動は取れない。私は
下をのぞきながら、それをするにもロッカーにメモを入れる何百倍もの勇気
が必要だと思った。そう思うことで、私に起こったことのちっぽけさを受け
入れようとした。私の人生の第一目標は怒りに牙をむきつつあることを消化
することになっていた。
いつも通る公園に入るとすぐに電話ボックスに入った。私は結局、夕暮れ
までかけて公園内まで帰って来ていたのだ。
私は思い余って言葉に詰まらぬようにメモ用紙に言うべきことを書いてい
た。由季はやはり帰宅していた。
「珍しい、さゆみさんからの電話なんて」
「訊きたいことがあるの。今井君のこと」
「今井君?」
「あなた、やっぱり、私の名前、言ったんじゃないの?」
由季はちょっと言葉に詰まった。「……なにかあったの?今井君がそう言っ
たの?」
「やっぱり言ったのね」
「……」
「私、辻上君に嫌われたみたい」
「どうしたの?何があったの?」
私は答えずに電話を切った。
(11)
[庭に帰る]