胡桃の庭
脱 皮 11
由季は私のロッカーにあったメモのことを調べるふりして、実は辻上君の
情報を知るために今井君に私の名前を言ってしまったのだ。そこしか私と辻
上君がつながる接点はない。私はこみ上げてくる涙を拭きつつ歩いた。
いつものベンチに暇そうに掛けている中年男が「君」と、小さく声をかけ
た。いったい何時から何時までベンチタイムなんだろう。私が悩める美少女
に見えたはずはない。優しい男性の宿命のように声が出てしまったのか。私
は無視してしまったが、初めて好意が持てた。
家に帰り着いた頃、馬鹿な私はようやく、気が付き始めた。
私は由季の計略におちて手の込んだ虐めに遭ったのだ。私のロッカーのメ
モからして由季のしわざだとしたら。
怒りは震えに変わり、治まらなくなった。殺意さえ覚える嫌がらせだ。
MIDORIの縦型リングメモに着目したのも、今井君に訊いたと言うこ
とも怪しい。由季が辻上君に私の名前を流したとも考えられる。
私はできるだけ落ち着こうと努力した。気を抜くと怒りが噴火するにちが
いない。
私は無意識に史子に電話していた。
「MIDORIのメモを辻上君が使っていそうだということも嘘だと思うの。
私をのぼせさせておいてどうするつもりだったのかしら」
「本当になんでもないの?さゆみ。大丈夫?」
「大丈夫だから電話できてるのよ」
「それならいいけど。由季にはなにかこわいものがあったよ、今思えば。家
中がごたごたしていてそこから逃げたいみたいなこと言ってたもの」
「それと私と何か関係あるの?」
「辻上君のこと、好きだったのよ」
「知ってるわ。私とはそのことだけは気が合ってたからね」
「ちがうの。さゆみのは他の何人もが認めるように、辻上君はカッコよくて
美形だからキラキラ見えるってものでしょ。由季のは違ってた。怖いくらい
辻上君のこといつも気にしてる。ストーカーにならなきゃいいけどってね」
「そうなの?」と言いつつ、史子が言うのならそうに違いないと思った。私
には由季のそういうことすら見えていなかったのか。
「だとしても、史子……」
「そこから先は分からないわ」
でも、私はこう思った。由季は辻上君を自分のものにできないストレスで
誰かを苦しめて自分を慰めようとした。ライバルに仕立てて、蹴落とされる
のを見たかった。私が一人で舞い上がっていながら全く進展しない恋。私が
じりじり苦しむ姿を横目で見ていたかった。
私はメモを入れたことを史子にも話していない。でも、この筋の通った話
は史子に理解してもらえた。私が予想外に苛立って、メモを入れる行動に出
ると由季は予想していなかったのだろう。
こういう理屈が固まると、震えが止まらないほど怒りが込み上げ、由季を
絶対に許せなかった。この震えを止めるためには自分のための癒しが必要だ
った。
鬱憤晴らしには鬱憤晴らしよ。陰湿には陰湿よ。私の怒りは辻上君からの
罵声や、おどおどしながら期待していた自分のいじらしさなどがすべて含ま
れていた。
日暮れ時、私の怒りは全く治まることなく、癒すための行動が実行されま
した。
冒頭に書きましたとおり、私は由季の愛猫を奪おうとしました。
崖下の道路向かって投げるなんて、無意味な行動が鬱憤晴らしになどなっ
ていないことを自覚して、激しい自己嫌悪に陥ったのでした。
由季をひっぱたけばいいのに、そんな勇気は全然無くて、猫に八つ当たり
して一人相撲とって。
私の行いはピアノ騒音殺人事件と同じ、勇気の無い人間が、堪忍袋の緒が
切れて犯罪的行動に出る。そう、犯罪者の心を持っていました。
そして、その心は私に襲い掛かり、支配し、私を別人のように変えようと
していたのです。鈍感な私から敏感な私に変わる過程が始まったのです。信
じていい事と、いけないことを区別する思考や、自分に対する思いすべてを
呑み込んで、溶かす。私がそこから再生する過程です。
私がデブブスであることを受け入れる過程。
私が猫に殺意を抱くことしかできない臆病者である事を受け入れる過程。
良心がゆるぎない高まいなものであることに気が付く過程。
心はいじめられっこのままの発想しかできなかったことを受け入れる過程。
女であったことを思い知る過程。
(12)
[庭に帰る]