胡桃の庭
脱 皮 12
家に帰ると、節子さんが夕食の準備を始めていた。私はそのおいしそうな
天ぷらねたを見て、きっと食べることで嫌なことは忘れられると思った。
そのとき、あまりにもあっさりとそう考えられたことに、ハッとするもの
があった。私は愚かにもそのとき初めて、私なりのストレスを食べることで
解消していたと知ったのだ。本当は体質が成長期に急激に変化して肥るよう
になったなんて思い込みに過ぎなかったのかと恐れた。
いつものように父はおそく帰るということで、私と母と妹で食卓を囲んだ。
いつものように節子さんはおすそ分けを少しもらって帰った。
余談だけど、私がもの心ついたときから、母は小さな服屋を経営してて、
仕事で遅くなるために、節子さんを雇い、家事を任せていた。儲かってはい
ないけど、それなりに長く続いているから、仕事として面白いようだった。
そういうことで、私も妹もなかなか母との会話の時間が持て無かった。それ
は家にとって、子供にとっていいことではないと薄々思っていた私は、中学
までは、妹のために早く帰っていた。それをあたりまえだと思いはじめた頃、
母は早目に帰ってくることが増えた。そうなると、確かに会話ができて、話
すことでの鬱憤晴らしや、少しでも大人の世界を話してもらえることが、面
白いと分かった。私は母のファインプレイだと思った。
ふと、そういうことを考えていると、娘の私は何してるんだと、現実に帰
ったときに、不良化していると思えて、またもや良心の呵責に苛まれた。
後に思えば、天ぷらを食べれば治るストレスではないことくらい明白だ。
私はまさに脱皮の苦しみなど知る由も無い甘い子供だったのだ。
さて、食卓に着いて美味しそうな天ぷらを見て、美味しそうと思いながら
も食べたいと思わないことに気付いた。ストレスだらけなのに食欲が湧いて
こないなんて。
「どうしたの?何か食べたの?」と、妹が覗き込む。
「食欲ないの。お腹すいてるはずなんだけど」
「珍しいこともあるものね」と、母は気にもとめずに言い、「妊娠でもした
の?」と言って笑っている。
「自分でもわからない。気分が悪いわけじゃないし。想像でも妊娠するらし
いしね」と、私も笑って見せる。
でも、分かっていた。私の頭のなかに共鳴して止まない辻上君の声。
『デブも治せ』の声。
あの声に金縛りにあったように食べ物に手が出ない。不思議だけど昨日は
ちゃんと食べられた。そう言えば食後、吐き気があったけど、苦しかったわ
けじゃない。
私は思っていたよりはるかに肥えた体を気にしていて、傷つきやすくなっ
ていた。辻上君の声を心に留めておく必要なんて無い。涙とともに洗い流し
たつもりだった。でも、心に染み付いて、深い傷口から血が滴り続けていた
のだと実感した。
結局、少しのご飯とオレンジジュースだけで夕食は終わった。
これが衰弱の始まりでした。
私は次の日の朝食も取らずに、ふらつく状態で登校した。
授業の内容もほとんど上の空で自分のなかに血が通ってない様だった。脳
は鉛と化したようで、感情すら湧かない。にもかかわらず、食欲は相変わら
ず起こらず、節子さんが作ったお昼の弁当を殆ど残してしまった。
由季はその日、午前中に早退した。私は何だかホッとした。彼女に無神経
に話し掛けられるのには堪えられそうになかった。
私が今日もクラブを休むと言うと、史子も一緒に帰ると言い出した。
弁当を残したことがよっぽど不思議だったのか、「大丈夫?」と、史子は
私の顔色を観察した。
「何だか疲れちゃった。食欲ないし」
「由季の話をしても大丈夫かしら?」
史子が私と一緒に帰りたがったのは由季の話があったからだった。
史子はバス停につくと自然とヒソヒソ話になった。
「今日、由季と登校したのよ。昨日、何か話したげにしてたから。私も聞い
てあげようと思ったからね」と史子は言う。「さゆみのことは仲間を作りた
かったみたいだって」
私はわからずに、聞き返そうとしたが、その気力すら起こらない。ただ、
怒りがぶり返さないようにカバンを握り締めた。
「自分でもわからないうちに、実らない恋に悩む人を増やしたかったってい
うか。もっと言うと、立ち直り方も知りたかったって。」
私は由季の顔すら思い浮かべたくなかった。ただ、うつむいて息が荒くな
るのを堪えた。
「辻上君にはね、好きな人が居るのよって言った。ずっと辛そうな顔してた
わ」
「彼はアイドルでよかった。彼女が居ようとどうでもよかった。もっと言え
ば好きでもなかった」と、私はやっと言えた。
「だから、私も振られたゃったのよって。」
私は由季の言葉を聞く精神状態でなくなっていた。早く帰り着きたい一心だ
った。
「あーあ、もう、なにもかも嫌になったとか。すごく落ち込んでるの」と言
うと、史子は本当に由季のことを心配げだった。
「そうかぁ、史子は由季にとっても愚痴を言える相手だったのね」
「謝っといてって言ってたよ」
「そんなこと史子にたのむなんて」
「まぁ、それは私のすることじゃないわ。でも、由季の状況を言っておきた
いの。由季のお母さん、通院日にも病院に行かないようなの」
「ひどいの?」
「どうやら、お母さんは病院代を節約しようとしているのよ。それが由季に
は重荷で、学費のせいかと思っているの。お父さんが背任行為で解雇されよ
うとして裁判沙汰になってて、そのこと、家族誰も二日前まで知らなかった」
私は遠い世界のことを聞かされたような気がしていた。
(13)
[庭に帰る]