胡桃の庭
脱 皮 13
「背任って、何したの?」
「由季が言ったのは、お父さんが元上司の着服行為を知ってて、会社に報告
しなかったことが、共犯の容疑につながってるらしいけど」
「お仕事何だった?聞いたことあったかなぁ」
「私は昨日きいたのが初めて。電気工事関係の商社らしい」
バスが来ると、乗り込んだ。二人とも並んで吊革を持った。
「でね、仕事はやめるけど、退職金がもらえない可能性があるって」
「そういう話って、何て慰めていいやら難しいわね」
「由季はお母さんに病院に行くように言いたいけど、事情を解決できないで
しょ。高校辞めようと思い始めてるの」
私は由季への憎しみやここ数日の流れが束の間、つまらないものに思えた。
憎しみが消えるわけではない。ただ、それだけじゃない色々な問題の一端に
過ぎないのかと思えた。
「由季が晩御飯を作ろうとすると、お母さんが無理してやろうとする。ただ、
寝てるだけのときはご免と謝る。調子がいいときは家事ではなく、編物をす
る。それも、編んだものを売りたいとか言うらしいけど、実際には100均
ショップで間に合うものばかり。お父さんも愚痴りたい様だけど、病人相手
じゃね」
「史子はすごい」と、まず思ったとおり口にした。「由季がそういうことま
で話すなんて。信頼置ける人なのね」
「私のことはいいの。でも、由季のことは私からお願いする。さゆみの事件
は由季からはちゃんと聞けてないし、全部話してくれたのかもわからないけ
ど、辻上君のことで由季を刺激しないでほしいの。さゆみだから、いつもの
ように冷静に……わかってくれるわね」
史子が私じゃなく由季の心配をしているのが妬けた。でも、私は史子の願い
ならきこうと思った。
「冷静と言うより、とても疲れてる感じだから、とりあえず、大丈夫よ」
「そうね、ほんとに今日は疲れてるみたい」と、史子は顔色を見ている。
私は許さなければいけないのかと一瞬思った。放課後、誰もいない教室か
ら出てきた辻上君が何をしていたかと言うことが、由季には気になって仕方
がなかった。ストーカーとはそういうものかもしれない。
「史子、辻上君と由季の間に何かあったと思う?」
「よかった。さゆみの頭がまだまわっていて。まぁ、そのことを由季に訊く
のはずっとあとにしよう」
私の降りるバス停が近づいてきたとき、史子は思い出したように「猫が」
と言った。
「え?」と、私はトギマギしていた。
「由季の猫が居なくなったって言ってた」
「ええ?いつから」私は嫌でも呼吸がぎこちなくなっていった。
「夜、帰ってこなかったし、朝も見かけなかったって。お父さんが猫に食わ
せる飯はないとか言ってて、まるでお互いに溜まったものの吐き出し合いみ
たいな大喧嘩になったって。いつもおとなしいお父さんが実力行使……どこ
かに捨ててきたのよきっと、とか言ってたけど、そんなことするものなのか
なぁ。それって本当なら、八つ当たりよね。」
私はただ、早くバスが止まることを祈った。
私はバスが止まると、ぎこちなくバイバイを言って。降りていった。
公園に入ると、一息ついた。脂汗が吹き出ている。
居なくなった。死んでなかったら帰るだろう。
まさか、あんなことで死ぬんだろうか。下の道まで落ちて車にでも轢かれ
たのか?
気が付いたら花壇の端にしゃがみこんでいた。
歩かなきゃ、考えずに、歩かなきゃ。
ゆっくり立ち上がると、とにかく、考えないように勤めて、歩くことに専
念した。
自分でも滑稽なくらいに動揺していた。考えないことにするのは難しくは
なかった。体から力が抜けていたこともあって、考える力が失せていた。
公園も半ばまで来ると、いつもの男が居るかと思いきや、ベンチにかけて
いるのは同じ高校の制服だった。
「由季さん」と、思わずつぶやいた。
その声よりも気配に彼女は気付いて、私を見た。
私は怒りを思い出そうとしていた。私は被害者だと思うように努めた。
「さゆみさん」と、由季は立ち上がって私を見る。
私は話す気はないというように目を逸らして進んでゆく。
「ごめんなさいね」と、すれ違いざまに由季は言った。
「私、今、とても気分が悪いの」と、正直な体調を訴えて、去ろうとした。
「初めから、私が考えてしたことじゃないのよ。それだけは信じて」
「また、聞くから、今日は、このまま帰る」と、私は由季を見ないで言うと、
「早退したのに……待ってたの?」と訊いていた。
「そうかもしれない」
「猫、居なくなったの?」と、私は訊いていた。がたがた震えていたかもし
れない。
「うん、きのうの夜から、猫も、お父さんも帰らない……猫連れて出てった
のよきっと。」
私は由季を見ていないけど、涙声になっているのがわかった。
私にとっても嫌な答えだった。
「ここに座ってたでしょ、最近、お父さん」
「そうなの、由季のお父さんだったの。また話そう。今日はだめ」と、言い
つつも、私は猫のことで気が動転していたから驚く余裕はなく、そのまま立
ち去ってしまった。
(14)
[庭に帰る]