胡桃の庭
脱 皮 15
歩き始めようとしたそのとき、あれが起こったのです。
ダーンという音とともに目の前を何かが通りました。上から下へ。私は咄
嗟にごみの袋かと思って、どこから落としたのだと見上げていましたが、そ
れらしい落し主は見当たらず、私は落ちてきたものを見ようとしました。
その黒いごみ袋と思しき正体は人間でした。人形ではなく、確かに男の人。
その黒っぽい服の男性はまったく動かず、うつ伏せに顔をこちらに向けて目
を閉じていました。飛び降り自殺だと気が付くのに5秒はかかったでしょう。
私は近寄ることも、通報することもできずに、呆然としていました。
そのうち、人が寄ってきて。警察に通報する人や近づいて見回す人などで、
視界からさえぎられて、ようやく、目を逸らすことができたのでした。
誰かが私を歩道のすみに寄せてゆくと、全身の力が抜けそうになっていま
した。そのとき、あの男の人がいつも公園のベンチに掛けていた人だと気が
つきました。見覚えのある人の光景だったから動転したんだと思うと共に、
由季のお父さんが亡くなったという思いまでめまぐるしく襲ってきて、私は
彼の見えない苦悩の返り血を全身に浴びたような気がしていました。
わかってもらえるでしょうか?返り血とは彼が抱えていただろう問題が彼
から解き放たれて周囲に飛び散ったイメージなのです。後で思ったことです
が、私が辻上君からメモをつき返された日、歩道橋から下を覗いてたときの
ことから繋がって、飛び降りた彼が苦悩から解放されたという思いになった
ようです。
気が付くと、私は病院の長椅子に母より若いだろう女性と座っていた。
「あれ?」と、小声が出ると、隣の女性は私の鞄を手渡した。
「道路脇に連れて行くとすぐに気を失ったのよ。学校には連絡しといたから
ね、中山さんね?」と言って彼女は立ち上がる。警察証を見せると、「学生
手帳を見せてもらったからね。とりあえず、診察を受けなさい。ちょっと貧
血みたいだし。私もね、偶然通りかかったものだから。それで、意識はしっ
かりしてる?」
「はい。すみません」私はぼんやりと見たことを思い出した。
「飛び降りるとこ見たの?」
「いいえ、ごみ袋と思って、上を見たけど、どこからか……」
「いいわ。私は少年課でね、あなたのように学校に行く時間が遅い学生のほ
うに興味があるの。でも、どうやらまじめな子のようだし、学校にも遅れる
って電話してたみたいね。体調が悪いんならせっかくだから、いろいろ診て
もらったらいいわ。じゃぁ、私はこれで」
私服の警察官は立ち上がるとさっさと出て行った。
そこは小さな医院だった。おばあさんが2人居たが、名前を呼ばれたのは
私だった。
「びっくりしたでしょう」と、太目の髭の医者が言った。「でも、気を失っ
たのは別の原因も有りそうだね」
私は何をどこまで話せばいいのか迷っているうちに、ちゃんとした返事す
らできなくなっていた。重大な病気にかかっていたら大変だという恐れから、
症状だけきちんと話すべきだと結論付け、医者に対した。
私はようやく自分の体のことにとらわれていて、常識的にすべきことがで
きていないことを反省し始めた。あの人は同級生のお父さんです。その一言
が婦警さんに言えてない。
自分の体のこと、人が落ちてきたことのショックに気がとらわれている。
そういう言い訳は自分にできる。でも、猫に結びつくすべての出来事に目を
そむけようとしていないかと思うと、ぞっとするものがあった。意識の中で
由季のことは私から切り離されつつあった。
「住所からだと萌生会に近いね、あそこで診てもらって下さい。連絡書書い
ときますから向こうの受付に提出してください。」
「なにか悪いんですか?」萌生会病院は家から歩いて7,8分。大きな総合
病院へまわされることを不自然に思った私はそうたずねていた。
「血を吐いてないし、肌も健康だしね。ただ、衰弱は気になります。入院の
必要があるかもしれない。まぁ、心配するのはよくないから、思いつめずに、
すぐに萌生会へ行ってください」
思いつめずにとはいい指摘かもしれない。思いつめているようなことは言
ってないのにそれが分かるのか、ちょっと心許せる人のように思えた。
忙しいはずの母が車で迎に来てくれ、診察料を払うと、そのまま萌生会へ
直行した。学校は休むことにした。
最初に内科の検査があった。血液検査、尿検査、聴診などしているうち昼
を回ってしまった。その日も食欲が湧かず、おなかが空いて苦しくなってい
た。その日から食べたいと思わないことの苦痛が急激に襲ってきた。
結果が出るまで家に帰り、夕方を待った。藤木という細い目が印象的な医
者は「内臓疾患でないかもしれない」と言った。確かに薬ももらわないで家
に帰った。
食べたいと思わないのは自覚している。でも、吐きたいとは思ってない。
私はずっと気がかりだった。
夕方、結果を聞きに病院へ行くと、そこでまた問診があった。そこで私は
髭の先生が引き合わせたい先生に合うことになる。
「神経科?」と、つぶやきながら私は待っていた。名前を呼ばれてカーテン
の向こうへ入ってゆくと、たぶん母と同年配の、それでいて若々しく見える
女性が掛けていた。
「はじめまして、小阪です」
(16)
[庭に帰る]