胡桃の庭
脱 皮 16
「あ、中山です」と、私は促されるままに丸い椅子に掛ける。
「そんなにわるくないんだから、緊張しないで」と、笑うから、私も微笑ん
でしまう。
「食べないのは吐くのが怖いのね?ほかに何か理由はないの?」
「はぁ……」脳裏を辻上君やミンのことがめぐり、返事ができない。
小阪先生はあらかじめ私が待合中に書かされていた質問表をじっと見てい
た。しばらく待っても私が何も言えずに居ると「理由が自分でもわからない
の?」と、言う。
「なぜ突然、吐くようになったのか……」と、私はとぼけてしまった。実際、
いろいろあったはずなのに、それは私の心に起こったことで、病の原因には
ならないと、そのときまだ心が体の臓器のひとつだとは思ってなかった。
先生は質問書に書いてある主に好きな友達がいるかとか、教師がどうかと
か学校関係のことや生活のことについて一通り確認した。私は今思えば、全
く警戒しているかのようにありのままを言っていなかったと思う。
「私はどう見える?どんな人だと思う?」と、唐突な質問に私は少し考えた。
「頭がよさそうで、美人です」
「おべんちゃら言っても治るわけじゃないのよ」と、微笑んでいる。
ちょっとムッとして「うそじゃないです」と言う。
「紹介してくれた熊田医院の熊田先生はどう思う?」
私が「笑顔がかわいいけど」と言ったところで小阪先生は笑った。「カッコ
いいとは思いません」
「自分自身のことをどう思う?」
「お澄ましだし、考えて話すからどうしても軽く会話が続かないんです。今
の質問が治療に関係あるのかとか詮索してしまいますし」と、彼女を見る。
「中山さん、あなたこそ頭がよさそうで、チャーミングですよ」
「え?あ、そんなことないです」
「自分のことを話すときは美人とかカッコいいとか言わないけど、自分で思
ってるよりずっと外見にこだわって人を見ているでしょ。それは自分の外見
にもこだわっているってことよ。−−チャーミングですよ、本当に。私がそ
う思うことにうそはないわ。証明書がないと信じないのかしら?」
「いえ、わたしはこんなですから……」
「こういう曖昧なことっていっぱいあるのよ。人への思いも、自分への思い
も、人からの見え方も、もちろん、体の調子もね。はっきりさせることと、
はっきりしてるはずだと思い込むことは別よ」
「はぁ……」私はそのとき、意味がわかっていなかった。
「症状が出るきっかけを話してくれないから、私も詮索しなくちゃね。知っ
てると思うけど、催眠術って治療法もあるけどね」
私はドキッとした。そしてそれを小阪先生に感じ取られたと思う。だから、
「思い当たるようなこと、あるんじゃないの?」と言えたのだと思う。
「吐く病気にかかってるんじゃなくて、食べてはいけないと思っているのよ。
胃はさゆみさんが思っていることに従うから、正直に吐き出そうとしてしま
う。いわゆる拒食症ですね」と、カルテに何か書いている。
「あなたの感情に近い部分が食べたくないと思ってるのに、意識はそれに気
が付いてないのかもね」
私は自分の体型のことを言う必要があるんだなと思って「私は肥ってます
から、食べたくないです」と言っていた。それは自分の中でも確認していな
かったことで、言ってしまってから、我ながらそうだったんだと思えた。
「生きるために、生活するために食べるのは必要よ。あなたも生活しなきゃ
いけない」ちょっと笑って顔を近付けて小声で「今、悩みがありますか?」
と言う。
私は返事に困った。中学のとき『悩んでいること』という題で作文を書か
されたとき、結局書けなかった。日頃、いろいろ悩んでいるつもりだった。
改めて私には悩みなんか無いのだと思い知った。嫌なことはあった。でも、
悩みがあるかと訊かれるとやっぱりすんなり答える言葉が無い。
「ないのね?」
間違ったことは言いたくないから考えないとしゃべられない自分がよく分
かる。でも、自分に正直に話せと言われている。それがわかった。考えがま
とまってから一気に史子に話し、主張するのとはちがうパターンだ。即答し
ない私の答えを先生は待っている。即答すべきなのだ。たぶん私の常識で。
「参ってしまってるけど、悩みは無いと思います」と、私は真顔で答えてい
た。
「わかった」と、小阪先生は何かカルテに書き始めた。きっと「ない」とは
書いてないんだと思った。それくらい私には余裕が無かった。
私はさすがに猫のことは言えなかった。それを別にしてもデブも直せと言
われたのだ。それに暗いらしいのだ。それは悩むべきことじゃないのか?だ
からこそ私は痛んでいるんじゃなかったかと考えが巡る。
「じゃぁ、あなたのいいところは何?」
悩みからいいところとは極端な考えの転換をさせられたものだ。私には金
縛りのように考えることができなかった。
「無口になりましたねぇ。そういうところから治しましょう。大丈夫よ、十
分に早期発見だから。長引かないように治療しますからね」
ようやくあの熊田髭先生が萌生会に行くように言った意味がわかった。そ
うだったのか、やっぱり私にはこういうのが必要だったのかと思った。
「さゆみさん」と、急に笑顔で彼女は言う。「すぐに良くなるわ。だからね、
入院しなさい、明日から」
「え!」と、声にはならなかった。
「過食はないと書いてるし、急な拒食が始まったばかりなら根深くはないわ。
そのかわり、学校へは行けない。実際もう、ちゃんと歩くことも辛いでしょ」
そうか、私はやはり見て分かるようにヨタっているのか。それにしてもよ
く見ている。
「でも、すぐに、すぐに良くなるわ」
「急ですね」と苦笑いした。
「交通事故に遭って入院するのと同じよ。藤木先生も賛同いただいたし」
(17)
[庭に帰る]