胡桃の庭
脱 皮 17
どう思いますか?他人事とわりきっていいのでしょうか。熊田医院にあの
婦警さんの名前と電話番号が書きおかれていたのを聞いていた私は、一刻も
早くと思いながら、結局、その日の午後7時になってようやく自宅から電話
をしました。
「もしもし、少年課の高木さんお願いします」と、私は気持ちを振り切って
言いました。
『高木さんはもう帰宅されましたが』と、若い男の声でした。
「私、公園横で起こった飛び降り自殺した人を知っているんです。それを言
ってなかったものですから。−−私の名前ですか?中山さゆみです。−−」
でも、すでに身元は明らかになっていたようです。私は何してるんだろう
と呆れてしまいます。ただ、自分の後ろめたさと戦っているうちに情報を発
信できなかったなんて。ミンのことがひっかかてるのか、私はそういう人間だ
ったのか。たぶん、前者だと思いたい。
入院とは別世界に行くようで怖い。特に自分が何にかかっているのかはっ
きりしないからその恐怖も加算される。早速、入院することになって、次の
日からベッドの生活が始まった。父も詳しい話を聞きたいと病院について来
た。私には食欲が幸いにして乏しかった。もし食べたくて仕方なかったなら
苦しく激しい嘔吐と戦わなければならない。だけど、極少量のお菓子のよう
な食事で、軽い吐き気に目が回る程度で済んだ。
「歩けなくなるそうだぞ」と、話を聞いた父は病室に寄った。
「もう大分、歩けない。火事でも起こったらまだ走れるんでしょうけど」
私は教科書と参考書を脇の本立てに立てていた。
「でも、すぐに治るそうだ。勉強なんてそこそこでいいぞ、一所懸命、治す
ことだけ考えろ」
父はことの本質を質問できずにいる。私もこれから整理しなくてはいけな
いのであって、確かに3人ベッドの病室は悪くないと思った。一人は寂しす
ぎるし、気がめいる。だからといって側に誰かがつきっきりなら落ち着いて
思いを整理できない。私こそ、あの公園のベンチで物思いにふける余裕が必
要だったのだ。
「気持ちが落ち込んでるだけみたい。だから、大丈夫よ」
「そうか」と、普段あまり話をしない父はここでも立ち入ったことを訊かな
い。私はそれを信用だと思っている。きっと無関心というのではなく、私を
頭ごなしに信用している人の姿だと思っている。だから、その人を裏切るこ
とはできない。これから先も父の前ではいい子で居られると思う。
「とても疲れてて、朝から眠たい」と言って、私は寝ることにした。
父母がそれぞれの仕事場へ向かうと、同室のおばさんが「ごめんねラジオ消
すね」と仕切り越しに言う。
「わたしはいいですよ。本当は眠らないほうがいいですから」
実際、眠るのはよくないと言われた。食べなくても本を読み、庭を歩き、ラ
ジオを聞けと言われていた。昼間は窓の日差しをよく見て、いつものように
勉強をするべきだそうだ。
学校では短期試験があり、朝のうちに「お見舞いなんて来るな」と史子に
言ってある。
なのに、夕方、早速、訪問者があった。河村由季は病室に入るなり、私を
認めると神妙な顔で一礼した。
「お元気?」という、的外れな挨拶もやっと言った感じだ。私と同じくやつ
れている。
私はどんな顔をしていいやら分からず、とりあえず被害者の顔を作ってい
た。
私と由季の間に起こったことは私に罪なことまでさせてしまった。その罪
を詫びなくてはならない。でも、発端は由季のせいだ。まだまだ整理のつかな
い私は被害者になろうと決め込むことで混乱やミンのことから逃げた。
「げんきではないけど」と、力なく言った。
そうじゃないでしょ、私はお父さんが亡くなったことで何か一言あるべき
だったでしょ。そう思いませんか?由季が「お元気?」なんていってしまう
のは無理もないけど、私の態度は私のことを考えての対応にすぎません。
「早いでしょ、もう、お葬式も何もかも終わったのよ」
と彼女が言うまで、私は自分の良心と戦っている姿が見えませんでした。病
気のせいなのか、わたしがそういうひとなのか、病室でお葬式の話も何だけ
ど、私から言うべきだったと反省しています。
「もう?昨日お通夜?」
「誰も呼んでないから。身内だけで。こんなことになって、学校、辞めるこ
とにしたの」
私は被害者でいいのだろうかと思うと、言葉が出ません。「そこに椅子が
ある」とやっと言うと、由季はベッド脇の丸椅子を持って、側に座りました。
「ミンはもどった?」と訊きたい。でも、それは由季にとってあまりにも唐
突な無意味な質問ですよね。のどまで出かかっているのにそれを言うわけに
はゆきません。由季の訪問は悩ましい時間でした。
(18)
[庭に帰る]