胡桃の庭
脱 皮 18
「ごめんなさいね。まさか体を壊すなんて思っても見なかったことだから、
今更、本当に悪いことしたと思ってる」
「史子ね?私の病気のこと何て説明したの?」
「心因性の拒食症だと聞いたから私。私のせいよね」
「かもしれないけど、由季さんのことかどうか、私にもわかってないし」
でも、本当は、ミンであり、辻上君のこと、由季のお父さんの自殺である。
私の心が思っていたよりずっと、か弱くてそういう心の乱れに対応し切れな
かったのだ。感情が心の許容を超えたのかもしれないとは小阪先生が回診で
言ったこと。きっとそういうことなのだ。
私はばかばかしくなって涙が出てきた。何の涙かわからないし、許容を超
えた反応の一部だからよくわからなくても仕方がない。
「さゆみさん」と、由季は鬱向いた。「悔しかったでしょ、わたしに弄ばれ
たと思ってるんでしょ。無理もないわよ。私は意味のないことを一生懸命や
って、いろんな人に迷惑かけて、父にも辛くあたって」
由季も泣き始めた。私は割と冷静に涙していた。だから、『意味のないこ
とを一生懸命やって、いろんな人に迷惑かけて』という言葉は素直に聞き取
れた。何を言わんとしているのかすぐには分からなかったが、私もそうだ!
と思った。幾度か心の中で独り言のようにくすぶっていた言葉。「意味のな
いことをして心に罪を作って..」このミンのことを後悔する思いの言葉に
近いものを由季から聞いたのだ。
由季が辛くあたったからお父さんが自殺したなんて思いたくはない。絶対
に思いたくない。あらゆる条件はそろっていたかもしれない。でも、ミンが
居なくなったことがすべての引き金となって、弾丸が飛ぶ羽目になったとし
たら。そう思ってやっともやもやと悩んでいた思いのひとつが刃物のように
鋭く私に向いているのがわかった。これだ、この途方もなく怖い考えが私を
苦しめている。
「違うの」と、言っていた。何が違うのだろうと、考え直した。頭の回転は
明らかに錆付いている。「悔し涙じゃないの」それ以上は白状できなかった。
「私はさゆみさんだけじゃない、辻上君にも、史子にも、今井君にも迷惑か
けたの。私は家を出て独立したかったの」
全く何を言っているのか由季も混乱しているのだろうか。
「私にとって家を出ることは、手に職つけることでも、キャリアウーマンに
なることでもないの。そんな道考えたこともなかったし、想像したこともな
かった。私は一刻も早く結婚して家を出て、ちゃんとした家庭を作りたいと
思ってた」
「結婚」とつぶやく私は何かの告白に圧倒され始めてた。
「私は子供だったのよね。家庭を持って、そこで子供をやり直したいと思っ
てた。たぶんそう。100点の奥さんにもきっとなれると思った。そのため
ならどんな努力だってできる。さゆみさん、私の努力って、結局、普通では
考えられないわがまになってしまった」
私は涙を拭いて聞き入るしかなかった。話の内容は後を追うように、スロ
ーモーションのように見えてきた。
「ちゃんとした家庭と言うより、ただ、逃げたいと思ってただけ。家庭のイ
メージをちゃんと持ってたんじゃない。何でも努力で乗り越えられると思っ
てただけ。お兄さんみたいに、高校卒業してさっさと出て行きたかった。だ
けど、私にとって、家を出ることは他の家に入ることだった。お嫁入りする
イメージ以外私にはなかった」
由季は少し黙った。うつむいて言い訳を考えているのか。私は「いいのよ、
ゆっくり話して」と言っていた。今はミンのことは考えないことにできた。
「お嫁入りの相手はなぜか辻上君だと思った。結婚と結婚する気持ちが本心
なのか不安だった。相手は誰だっていいくらいのはずよ。なのに、私が夢中
になったのはクラス一の美形。ね、さゆみさん」
「ん?」
「お母さんのこと、気がついたでしょ。あのひとは体が弱いだけじゃなくて
引きこもりがちだし、知恵も遅れてると思うの」
私は彼女の言っていることが分からず、ぼーっと見返すしかなかった。
「今も少女なの。あのひと」
「どういうこと?」
「女の子の未来はお嫁さん。そのイメージのままなの。お嫁さんになったら
終わり。その後はないの。そういう子供なところが私にも遺伝しているの」
由季は肩を落として息を整えている。
「辻上君になにかしたの?」
「ええ。最初は今井君に気持ちを伝えてもらおうとした」
「結婚したいなんて言ってないでしょ」
「それが非常識なことは頭ではわかる。だから、私には辻上君だけなのって
言うしかなかった。自分の気持ちに追い詰められて堪えられなくて」
幸いにして私にはその追い詰められる気持ちが理解できる女になっていた。
「辛かったのね」
由季は私の言葉にハッと見上げ、ゆっくり泣き始めた。
「結果が良くないと、今井君を攻めて、八つ当たりした。彼は気持ちの優し
い人で、私のショックを受け入れてくれたけど。私はわかっていながら、ど
うしようもなくて、私のことを辻上君に悪く言っただの……」
「辻上君のロッカーにラブレターでも入れた?」
「そういうことがあったけど、私じゃない。だから、ショックだった。私で
ない人がそんなことしたなんて。私は遅れていると思った。今井君に迷惑か
けてる場合じゃなかった。辻上君に誰が近づこうとしているのか気になった。
でもね、もっと気になったのが、辻上君とばったり出会った夕暮れの教室の
前。そのときは何も言い出せなかった自分を呪ったけど、あとでさゆみさん
のメモのことがあってからは、気にせずにはいられなかった」
(19)
[庭に帰る]