胡桃の庭
脱 皮 19
「こんなデブを相手にするわけないじゃない。彼が」と言いつつ、胸が痛ん
だ。私はようやく腹を立ててた自分を思い出した。
「どうしてなの?由季さんは炊きつけたのよ、私を」
「真実を知りたいのはあった。今井君にもメモを見せてみた。で、さゆみさ
んのロッカーにあったことも言った。そのあと、さゆみさんをその気にさせ
るようなことしたのは分からない。でも、きっと、私の仲間を増やしたかっ
たのよ」
「辻上ファンクラブ?」
「私一人が苦しむのが堪えられなかったのよ。同じように苦しむ人が見たか
った。そういう馬鹿な子供なのよ、私は」
「信じられない。って言いたいけど、由季さんのおかげで、分かるような気
がする。私もね、子供だった」
「もう明日から学校行かないの。甲府に引っ越したら高校に行くかどうか考
える。−−ここでのことは忘れて。そして、入院が私のせいなら、どうか許
して。謝るしかないの」
怒りは思い出した。でも、それに連動してミンのことがよみがえる。私の
苦痛は良心が与える強烈な後悔だった。
「そうよ、子供だった」と、私は私につぶやいた。
「でしょ、笑ってよ。−−お兄さんが帰ってくるの。お母さんはずーっと泣
きっぱなしだし。あんなお母さんだけど、お父さんをとても愛してたと今更
分かった。遺書がね、見つかったの。ひたすら家族に謝るだけの手紙がね。
なぜか今、家族3人、しっかりやってゆこうって言い合えた。お父さんが私
たちのために苦しんで生きていたことを、みんな知らないでいたから、それ
を反省したのかしら。口うるさいだけの不機嫌のかたまりのような存在だっ
たお父さんがいちばん経済的にも精神的にも建て直しに必死だったのがわか
った。背任罪に問われながらのリストラだから、退職金もなかったのよ。−
−最後、口論して分かれたままってことが辛いけど」
私はあのベンチの男を思い出した。苦悩する男性がそこに居た。私はいっ
たい病院で何をしているんだと思う。由季はなよなよした美少女にしか見え
てなかった。ベンチの男は幸せな家庭を作られなかった無念を抱えて死んだ
のか。私はまるで表面しか見られない馬鹿な子供だ。そう思うことは底なし
の拒食に歯止めをかけるような勇気につながる気がした。たぶん、怒りの成
分が癒えたのかもしれなかった。そう思うと、「ありがとう」と言っていた。
「さゆみさん」
「私が抵抗力がなくて、免疫がなかっただけ。私は史子にえらそうに言った
ことがある。いじめられっこはいじめっ子と同じくらい悪い子。お互いに悪
い子だったのよ」と、ようやく言うと、突然の疲れに目を閉じて息を整えた。
「大丈夫?」
私はダメダメをして寝そべってしまうと、天井を見た。
「よく、話してくれたわね。私のことなら全然平気よ。−−山梨は富士山が
綺麗でしょうね。私がこんなんでなかったら気の利いた台詞、言っちゃうん
だけど。疲れちゃってて」
「ごめんなさい。疲れる話で。じゃあ、帰るね。短い間だったけど、この町
での高校生活、いい思い出にするね」
正直、体も気も弱っているせいか、全面的に由季を許していました。
「由季のことお願い」だったか、史子に言われたことを思い出しました。史
子は由季が私に許されることで幾らか救われるとわかっていたのだと気が付
きました。私の怒りより由季の苦悩を優先的に気遣う史子のバランス感覚は
素敵ですね。
こうなると、余計にミンのことが浮き出てきて、私の罪を良心が苦しめま
す。こうは思いたくないけど、お父さんがミンを捨てただのってことで由季
が辻上君のことなんかも含めた鬱憤を吐き出したとしたら。だから前途を見
失ったお父さんは思い切ったとしたら。恐ろしくて考えたくないけど、この
震えにもしばらく付き合わなきゃいけないと思いました。少なくとも、「口
論して分かれたまま」にしてしまったのは私のせいです。
もうひとつ。ミン自身の命を奪ったかもしれないと言うことさえ、考えた
くありません。この思いにも悩まされつづけると覚悟しました。
そうして、私は回復するどころかその日も次の日も蜂蜜ジュース以外全く
食べられませんでした。
私の病床を辛く書くことは控えます。あったことだけを書きます。ひたす
ら衰弱の苦しみを書く言葉がみつかりませんし。
小阪先生の回診はなぜかこちらから診察室を訪ねることになっていました。
悩みが晴れたか訊かれたので「はっきりしないんです」と答えました。
「物事ははっきりすべきだなんて思わないでね。はっきりしているはずだと
思うのはよくないわよ。実際ははっきりしなくてあたりまえだから。法律の
勉強しているの?小六法、本がね、ベッドに積んであったでしょ、教科書以
外に。白黒はっきりしないと気がすまない人は、曖昧な自分の心の動きが理
解できずに体調まで乱すのよ。几帳面な人も限度を越えると危険なのよ」
いちいち小阪先生の言うことは私に当てはまります。だから、症状が現れ
ているのでしょうけど。たぶん、そのとき初めて信頼したい人を感じました。
友達も先生も、信頼できるかどうか値踏みする立場で人を見てきたような気
がしました。
それでも私は私に起こった事を話すことはありませんでした。進んで話せ
る健全なことはない様に思えたから。由季の話を聞いた後はむしろ、私に起
こったことは何だったのか取るに足りないことのように思われました。
(20)
[庭に帰る]