胡桃の庭
脱 皮 20
そうは言っても、3日目、私は立って歩くように言われて廊下に連れ出さ
れたとき、あっさりと辻上君との間に起こった事を話していた。もちろんミ
ンのことは言えなかった。でも、由季のお父さんの自殺が私の許容範囲を越
えた事件で混乱が起こってたかもしれないと言った。時には人が落ちてくる
瞬間的な悪夢を見た。
「好きな人が居たらそのことが自分のことの全てなんてことはあるわね。で
も、何日も付き合ったわけでもないから、失恋にもならないじゃない」と、
小阪先生は窓の外を見ながら言う。廊下の突き当たりは日差しが眩しい。
「はい、ちっぽけなことです。たぶん。でも、亡くなった人のことはちっぽ
けじゃない」
「風が吹けば桶屋が儲かる。知ってるでしょ。人と人は関係なくして生きて
ゆけないけど、関係と言うものがあるんじゃないの。あなたに起こったこと
は他の人にはわからない。あなただけが清算すること。そのためになにをす
るかは、また別の話。亡くなった人に起こったことは、それ自体がその人に
とっての清算だったのよ。あなたの問題と少しも重ねて考えるべきじゃない
と思うけど」
私には先生の言葉が消化できなかった。
「要はあまりいろいろ関係ないことまで取り込んでごちゃごちゃにするなっ
てことですか?」
先生は声を出さずに笑うと、「人との関係とか関連付けとか迷信とかは摂
食障害につながるのよ」と言う。「また、その意気で、いろいろ話して頂戴。
話すことは整理することだからね。−−今日も庭を歩くのよ、ゆっくりでい
いから」
「あの、生理、来そうにないんです」
「さゆみさんの体が栄養不足なこと知ってるのよ。心配要らない。昼は光を
浴びて散歩して疲れて、夜は考え事せずに眠ることね。夜に勉強はしないこ
と」
私は重い体を引きずるように、庭へ出ていた。
史子は本当に試験中は来ないつもりのようだった。母や、節子さんや妹が
日替わりで看病に来ては元気そうな私を見て安心していた。寂しいものだな
と感じていた。庭を歩くのだって一人じゃつまらなかった。自分の部屋に居
るときは詩を書いたりして一人で過ごすことは何とも思ってなかった。確か
に勉強できないことも学校に行けないこともつらいと思ったけど、いつかち
ゃんと食べられる普通の生活ができるようになるのか心細く弱気になった。
今朝の何も出ない嘔吐が今度はいつ襲ってくるのか。こうしている間にも
起こりえるのか、そういう不安もあった。先生の言うように疲れれば、夜は
眠れて、食欲も湧くのだろうと信じた。
次の日はもっと眠れるようにもっと疲れなきゃいけないと思い込んだ。庭
をがんばって歩きすぎたのか、私は気が遠くなりかけてフラフラしたと思っ
たら、周囲がぐらぐら揺れた。地震かと思った瞬間、倒れてしまった。そう
か、倒れるとはこういう事なんだと思った。
そのうち、何人かにかかえられて病院内に入っていくのがわかった。そう
いう経緯を知りながらも声に出して言う言葉も見つからなかった。私は力な
く「大丈夫です」と「内科病棟の中山です」だけ言ったと思う。
裏口から入ったところにある長椅子に降ろされ、誰か看護師さんを呼びに
行ってくれた。「大丈夫です」と、言いながらも私は起き上がろうとする気
力がなかった。
そのとき、目の前に私の姿が映っていた。アクリル板のような即席の仕切
りに長椅子の私が映っている。これはとてもちっぽけな、とても重大な出来
事だった。
私の姿は奇妙に波打っていた。あのときもそうだった。私は咄嗟に「やめ
てー」声なく叫んで目を閉じた。
「どうした?」と誰かに言われて、私は目を開いた。
「ごめんなさい」私は、勇気をふりしぼって歪んだ私を見た。
あの日、飛び降りがあった日、私は喫茶店の壁に映った歪んだ私を見てた。
歪んでいるから醜いんじゃない。私は女性として醜いんじゃないかと考えて
いた。そんなことを思って落ち込んだときに、彼が落ちてきた。
そうか!私は私のことを嫌いになっていた。思慮深いのではなく、考えが
遅いんだ。史子の愛情に感謝もできず浸っていた。由季を憎んでも何もでき
ない醜い私。ミンに八つ当たりしてしまった馬鹿な私。こんな私を辻上君は
醜いと非難した。私が私でなくなる必要に迫られた。私は暗いのだ。私はデ
ブだ。体質だと思ったデブ。私は私でなくなりたいと思った。生まれ変わり
たいと思った。そのとき、目の前で人が死んだ。生まれ変わるのと死ぬのは
違う。そんなことを思ったとたん気を失って熊田医院に担がれた。
「中山さん」と、看護師が来たときは、私は心の痞えに気付いて長椅子に座
り直していた。
「ごめんなさい、今日は張り切りすぎたの。病室に戻ります」
情けないことにわたしは看護師に腕をとられ、付き添われて病室に戻った。
一通り血圧など測られて「大丈夫」とは言ってもらったものの、へとへとに
なっていた私はこれ以上は堪えられないと強く思った。思うことが大切と小
阪先生にも言われていた。実際、力がほしいとうずうずしていた。でも、食
欲までは及ばなかった。
きっと、心の傷の部分がわかったから、そのことと差し向かいで語り合え
ば何とかなると思い込んだ。そうそう、私は私が嫌いで仕方がないんだ。で
も、人間は変われる。変わることが成長なのだと前向き思考を決め込んだ。
蜂蜜ジュースを飲んでベッドで落ち着く頃に、タイミングを図ったように
史子が顔を出した。
「これが試験問題。今は見ないでね。まるで病人みたいな顔してるから、そ
れを先に何とかしてよね。お土産はなしだけど、何でも食べられるようにな
ったら、モン・ナポのプリンくらい買ってくる。重病人になったらフルーツ
バスケットにするけど」
「プリンくらい食べてもいいのよ。病院食も食べてないし」
「疲労回復にはいいけど、ダイエットには向かないかな。でも、疲れて見え
る。少し痩せた?」
(21)
[庭に帰る]