胡桃の庭
脱 皮 2
「ピアノの騒音がうるさいって不満は、その一つ一つが抗議するに足りな
い、我慢の範囲に収まるものだったはずなのよ」と、私は高校からの帰り道、
史子に話していた。4年程前、史子の近所でピアノ騒音殺人事件があった。
二人の間に時々その話題が出るようになったのは、加害者を私が弁護しよう
としていたから。
「だけど、ピアノ弾いてた人は迷惑をかけていることがわからなかった。そ
れなのに、殺されたのよ。全然引き合わない」と、史子はうまく反応してく
れる。
「加害者に蓄積される不満が自覚されても、2年もの間抗議もせず、今更、
音を控えてくださいとは言いにくい。それが、自分だけの我慢で済むものな
らよかったけど、息子さんの受験なんかが重なってくると、息子のことを第
一に考えてしまってね。動機としては成立するでしょ。
それにね、殺された人が迷惑を掛けていることがわからなかったか、わか
っていたかは、この加害者の罪とは関係ないと、私は分かったの」
「自分が迷惑掛けてるとわかってたら殺されたときにほんの数ミリ浮かばれ
るでしょ。そのぶん、加害者の罪は軽くなるのかもしれないけど」
「罪はあくまでも加害者の殺意にある。罪が軽くなるのはそういうことじゃ
なくて、事件が起こったときの心だと思う。精神に異常が起こったかどうか、
誰だって殺害に及びうる状況だったかよ。突然のきっかけに、今こそ抗議の
ときという思いと、蓄積された鬱憤と、息子の受験勉強のことなんかが一気
に、怒りの形で噴出した。そのことが一般的に同情されるものなのかよ」
「私は加害者に同情したくないけど、そういう心になり得るのかなぁ」
「殺人が起こるほどのことなのに、被害者は罪の意識を持っているそぶりが
なかったらしいし、謝罪もしていない。苦情を言わなかったほうばかりが悪
いかしら」
史子はうなずきながら、「あ、そうか、ご迷惑でないですか?って伺って
みる必要があったということね。さすがに深く考えるわね中山弁護士」
私はどんなもんよ、と言わんばかりにいい気分になって続ける。いつもい
つもこんなふうに私は分かった風にものを言い、高慢になっていた。小学生
のときからずっと、高校に入学してからまでも、私は史子に対して上からも
のを言っていた。
でも、私は実際には高慢なことを言っていられる人間ではなかった。私は
あのとき、犯罪者の心を持った。
高校の制服がしっくりしてきた5月の真っ只中、私は少し蒸し暑い夕ぐれ
時に小さなくだらない殺意をもってそこへ行った。
小さい公園に自転車を止めてその先の石段を上り、がけの上に建っている
塀の外側に身を潜めていた。そこから十メートル程下の道路が見下ろせた。
ここから子供が転がり落ちて交通事故に遭ったことがあって、簡単なブロッ
ク塀が作られたのに、こうして塀の外側を子供が通れるほどの隙間があるの
だから意味がない。下の道は時々車が通るくらいの裏道。私ががけの上でし
ゃがんでいても誰も気付かないし、気付いてもそれが特に不自然には見えな
いだろう。崖と言えるけど、九十度に切り立っているわけでもなく、草も茫
々に生えている。
私はいつも決まった頃に塀の上を猫が散歩に出るのを知っていた。
あの日も決っと現れるだろうと時間の感覚も分からない状態で待っていた。
ミンと名付けられた白地にまだら黄土色の猫。心待ちにしていたわけではな
く、来ないなら来ないでもいいと思ったし、来ないでほしいとすら思ったか
もしれない。涼しい風が湿り気を帯びて冷やりと感じた頃、それが何時頃な
のか見失ったまま、思考を拒否した状態の私は、ぼんやりと塀の上を見つめ
続けていた。
小さな鈴の音にハッと立ち上がると、今更、猫の目の光が分かるくらいに
暗くなっていることに気が付いた。鈴は現れたミンのものだった。
私は由季への憎しみを今こそ思い起こそうとした。良心との闘いは予想し
てたことだった。「ミン」と手を差し伸べると、ちょっと凝視して、飼い猫
らしく警戒せずに近付いてきた。
猫は猫でなく、無力化した由季の分身に見えたから、猫の可愛さは私の怒
りにかなわなかった。でも、良心が私を金縛りにしようとしていた。
もうひとつ白状すると、私は太目のカッターナイフを用意していた。殺し
てしまおうと思ったとしたら持ってなければならない。ポシェットからそれ
を怒りに震えながら取り出そうとしても、私は金縛りに遭ったまま動けなか
った。
河村由季の声と顔を思い出し、私が浮かばれることを願おうとしたのだけ
ど、やっぱり動けない。体の振動が掴んだ猫にも伝わって、それは暴れ始め
た。私はどうしようもなくなって「イッ」とか喉の底からうめいてそれを放
り投げた。
(3)
[庭に帰る]