胡桃の庭
脱 皮 21
「そういうことは考えても見なかった。そうよね。食べてないんだから痩せ
るかも」と言いつつ、食べないことと痩せることは関係ないと自分に言い聞
かせた。ダイエットと言う発想は危険だと小阪先生が言ってた。
「電話してくれたとおり、由季から引越し先、聞いておいたけど、由季の要
望で2ヶ月は連絡とらないでって言われてる」
「どうして?」
「もし、さゆみだったら、やっぱりそうするでしょ。いや、引越し先、教え
ないかもしれない」
「そうかなぁ」私以上に私の行動パターンを理解していると言うのか?
「由季にとってここは嫌な思い出の町。人に迷惑をかけた挙句、父親の自殺
でこの町から出て行く。そういう引きずりたくないものが新しい町まで追い
かけてくるのは嫌でしょ」
「それはあるかな。じゃあ、2ヶ月で立ち直るってわけね」
「そういうことなんでしょうね」
辻上君への思いはどうやって断ち切ったのだろう。病的な執心の克服も、
家庭の復活も何を心の支えにしてがんばるのだろう。私は単純に体に症状が
現れて入院に甘んじている軟弱者なのだ。
「今日、森永君から由季の住所を訊かれたの。こっちの住所よ。あっちのは
言ってないけど。いつかなぁ、さゆみが休む前の日だったかなぁ。クールに
見える森永君、人目もはばからずに何か由季に言ってた。内容はわからなか
ったけど、『辻上や今井や中山』って聞こえた気がする」
「そんなことあった?」
「あの日、さゆみはさっさと帰っちゃったと思うけど。正直、なんで中山っ
て固有名詞が出てくるのか気にはなってたけど、今思えば、もう由季がばら
しちゃってたのよね」
あ、私が辻上君にメモを返された日だろうと思う。
「ちょっと言い過ぎたとかで、顔が真剣で怖かったから、さっさとバス停と
か道順とかノートに書いて渡した」
「へぇー、由季さん、結局あの3人組に何らかのかかわりがあったのね。私
が知ってるのは今井君に八つ当たりしたとかまでだけど」
「今井君はいい人だから、ちゃんと由季が辻上君に相応しいかどうか考えて
伝えたと思うわ」
「史子は彼の肩持つわよね」
「そう思っただけよ。だけど、電話番号でなくて住所でしょ。私も住所は知
らないからね。森永君、行くつもりかなぁ。だとしたらもう遅いかもしれな
い」
「そうね。昨日までだったのよね。でも、もういいじゃない。もう由季はそ
っとしておこう」
「由季は立派だったよ、お別れの挨拶のとき、教室の前で。口論したあと出
て行ったお父さんが次の日、自殺したこと。会社での問題に巻き込まれて無
実の罪を着たと信じているとか、クラスの一部の人に大変迷惑をかけたとか。
隠さずとはいわないけど、あんなふうにちゃんと話すと思わなかった。みん
なが静かに聞き入ったわ。お父さんを大切にしてくださいって締めくくられ
るとしんみりしちゃったけど。基本的にさばさばとしたはっきりした人だっ
たのかもしれない。そう見えなかったこと自体がいつもの由季じゃなかった
のね」
私はそこにいて聞いてみたかったと思った。「そうなんだぁ。女々しいと
思ってたわ私も。でも、ストーカーがさばさばとしたはっきりした人かなぁ」
そうだ、きっと、由季も何かが幾らか変わったのだ。そうに違いないと思
った。
「変われた」と、口に出ていた。
「え?」
「きっとそう、変われたのよ」と、つぶやくように自分に言っていた。
3人組が私たち3人組を追い越して歩いていったあの日。振り返った今井
君が由季を見た意味。由季が辻上君に振り返ってほしいと願っただろうあの
とき。私が巻き込まれることも知らずに眩しく辻上君の背中を見ていたあの
とき。いまさらそれぞれの思いが垣間見える。
5日目の回診。私は自ら診察室を訪れることになっていました。最初に内
科へ行きました。
痩せた細い目の藤木先生はいつものように良くなっているとも悪くなって
いるとも言わず、食べた量とか吐き気とか訊くだけでした。ただ、「急に強
い食欲が起こっても流されずに、マイペースで、お粥一杯にしておくこと」
と言われました。私は食欲がまともに湧けばいいと願っていたので、ちょっ
とひっかかりました。
「お返事してください」
「あ、はい、分かりました」
自分の体のことなのにまだ質問する気力が性格的に出てこない私でした。
(22)
[庭に帰る]