胡桃の庭
脱 皮 22
私は小阪先生を訪ねて話したいことがいろいろあったため、彼女の診察室
に入るのが楽しみだった。私は人に会うことを楽しみにしたことがあまりな
かったように思う。
由季の教室での別れの挨拶について話し、彼女の病的な執心の克服、家庭
の復活などの課題へ前向きなのに感心したことを話した。
私は入院に甘んじている軟弱者だと思ったまま言った。
「前向きと言うことは後ろ向きでないと思ってるでしょ」
「はい」
「それ自体がだめ。だめと言う考え方がだめ。第一、入院したから軟弱者な
の?」
「でも、私は何かの病気なんですか?」
「入院してるのに?軟弱者ではなくて、治るものは治るときが来るの。今は
そのときが来てないだけじゃないの?」
「あ、そうなのかも」言いながら私は女性の先輩としてこの人とずっと話し
ていたい気持ちが湧いていた。クラブの先輩に対してもこんな気持ちになっ
たことがない。本当は誰にも心を開いてこなかった側面が見えた。
「前向きでない自分も受け入れなきゃね」
いつも少しだけホッとさせるのがいいのかも。
「自分は不完全の中に居ると思って。本来の自分は完全じゃないくらいにね」
「そういうことが私にはあります。何がどうあるべきかを子供じみた理解で
思い込んでたと思います。白黒はっきりさせたいと思うから法律とか興味が
出たし。でも、最近、急にいろいろわかり始めて、どのくらい悪いことなの
か、どのくらいの被害なのか、上から審判を下せないと気がすまない私は、
消化不良なんです。そして、そういう自分が嫌になったと思います」
私は流れるように喋った。
「自分を受け入れられないのは、うその自分を心に作ってたからよ。だから、
自分が嫌いになってゆく」
ああそうか。診察室だけでなく、普段どこでも、もっと素直であればよかっ
た。
続けて、昨日の自己嫌悪の再認識についても話していた。
6日目、心も落ち着き始め、人が落ちてくる瞬間的な悪夢を見ることもな
くなりました。私は変われるような気がしてきました。食べないのは今まで
とは違う自分になる象徴的な行いだと思えました。
その日、節子さんが着替えを持って帰るとき、入れ替わりに思いも寄らぬ
人が来ました。この人の訪問は私にとって特効薬になったのです。
「お友達ですよ」と、節子さんは彼女を中に入れると、彼女が持って来た花
を生けるため、牛乳瓶を洗います。
私は誰だかぴんと来ず、馬鹿になってしまったのかと思いました。
同じ学校の制服を着た彼女も言葉に迷っている様子。
「これでよし。じゃあ、帰るね。ごゆっくり」と、節子さんが出て行っても、
彼女は困ったような顔して立っていた。
情けないことに私は彼女が誰なのか思い出せなくて、声がかけられなかっ
たのです。
「そこの丸椅子を使ってください」と、指差すと、彼女は丁寧にお辞儀して
それを手に側に来た。
「お疲れなら、またにしますけど」
私はその愛らしい声を聞いた途端、クラスメートでしかも副学級委員だと
思い出した。疲れは頭にも来るというのがこの入院でよくわかったから、脳
も心も臓器だと認識できた。名前が思い出せなくても仕方ないと思って、素
直の第一歩として「それはいいんだけど、お名前が思い出せないの」と言
った。
「南です」
『南さんが持ってたから』って由季が言った。あの南さんだ。そうだ、辻上
君の隣の隣が森永君、その隣がこの人だとちゃんとホームルームに存在して
いることを思い出した。
「ああ、そうだった。頭が回らない病気でもあるみたい」
「疲れてるように見えたものだから。当たり前よね」
「びっくりした。給食のパンを届けに来たんじゃないんでしょ」と、私はジ
ョークが言えた。気持ちに余裕が出ている。変われると思った。
「伝書鳩みたいなもの」と言って彼女は椅子に掛けると、また、困ったよう
な顔になった。
「中山さん、今さら遅いんだけど、辻上君が謝りたいって言うの」
そこまで聞いただけで、私は少し混乱した。心因性の拒食という言葉は史子
によって周知のことだろう。その原因に思い当たる彼が謝りたいと思っても
不思議でない。不思議なのは彼女だ。
「あなたにひどい事言ったって反省してた」と、彼女は私の反応を見る。
私はなんだかほっとしたような気になっていた。事実、辻上君のいやな印
象は自分の中で否定していたことで、ずっと葛藤していたことでもある。や
っぱり普通に謝れる人だ。良かったと思った。
「もしかしたら、病気の原因は、自分の言ったことじゃないかって。今更だ
けど、とても悪いことしたって言ってた。」
「そう。いいのよ、私にはこんな体験が必要だったみたいだし。でも、南さ
んに彼が頼んだの?」
「ええ。だけど、私にも責任があるの」
(23)
[庭に帰る]