胡桃の庭
脱 皮 24
「治ったのかもしれないって、ちょっと思ったから」
「そんな大切なことをあなたが一人で判断していいのかしら」
「判断したんじゃないです。ほんとに、ちょっと気が緩んでしまいました。
先生の言いつけは守ります。まだ、吐くんですね私」
「拒食と過食、どちらも同じ、表裏一体のものなのよ。これが交互に起こっ
たら大変なの。普通、大変な状態になってから病院に来る。治療が長引くか
ら生活に影響が出ないように通院になる。人の監視がないと、つい食べてし
まって、なかなか治らない。言ったでしょ、すぐに良くなるって。さゆみさ
んの場合は珍しく急性で、拒食だけだからそう言ったのに。本人に治す気が
なければ……」
「いいえ」と遮った。「本当に魔が差したんです。治る気がしたから」
彼女はため息をついて優しい目変わった。少しホッとした私は頭を下げて
窓から外を見た。
「あなたのそういうところを、見てもらいたいの。−−二つの輪があるでし
ょ、ほら、石が並べてある」
見ると、庭に植えてある2本の木の根元を囲むようにそれぞれ岩石が並べ
てある。
「向こう側の輪の中にあなたは居ると思ってる。手前は魔が差したときのあ
なたが居る輪。あっちの輪の中にあなたは居ないのに、あっちに居ると思い
込んでる。わかる?」
「魔が差したんじゃないってことですか?」と、暗い声になった。
「ええ」と、きっぱり先生は言う。「さゆみさんは本当は手前に居るの。魔
が差したから食べてしまったんじゃなくて、さゆみさんはそういう人なの。
言いつけられてても、つい食べてしまうひとなの」
私はプライドを傷つけられているような痛みを覚えた。
先生は続ける。「いいこと、自分は不完全の中に居ると思って。ってこの
前言ったのを憶えてる?本来は完全側なんだけど、たまたま不完全なことを
したんじゃないの。あなたはわがままする人なの。本来は向こうの輪に居る
はずなのに、たまたま手前の輪に入ってしまったなんて、プライドの持ちす
ぎよ」
見透かされたような気がした。実際、プライドが傷つく感じを覚えていた。
小阪先生の言うことだから、きっとこれで傷つくこと自体が変なのだとも思
い惑っていた。すると、さらに見透かしたように先生は続けた。
「プライドってね、自意識を肥大させた勘違いではだめなのよ。『プライド
にかけて食べない』と思うべきところで、食べてしまったのならそのレベル
のプライドを持っちゃだめ。低レベルの自分を受け入れて反省して自分から
ブライドに掛けるの。ほら、手前の輪の中から向こう側を見ては、ああであ
りたいと憧れているのが現実のさゆみさん。食べたいから食べるさゆみさん
よ。向こうに居るつもりになったら、あなたはいつもいつも、『私はこんな
はずじゃない』って思いつづけることになるわ。それが自己嫌悪よ。人はそ
れでイライラしたり、鬱憤晴らししたりして反省を怠る。プライドを勘違い
してるとね、私は本当はちゃんとしているはずなのに、何しても考えている
通りにならない。自己嫌悪がひどくなる。あなたは拒食というかたちになっ
た」
わかる?というように肩に手を回してパタパタとたたいた。
そうか、プライドがあるから、傷つくし、プライドが実際より高いから私
は自分をだめだと思って嫌う。
「言いたかったのはそのこと。さ、戻りましょうか」
「あっちの輪の中に、私は入れるの?」
「入れないわ。目と鼻の先じゃなさそう。夢の世界と現実くらいに遠いみた
いよ」
私の中でいろいろ整理がつき始めたその頃から少しだけ食べられるように
もなった。
前向きに考えるべきじゃなくて、前向きに憧れればいいというニュアンス
は私のお気に入りになった。
私は良心と仲良く付き合っていくことになるから、ミンのことは心の痞え
として持ちつづけなきゃいけない。それがいやだと考えちゃけない。これか
らも自分のしたことでいろんな人にいろんな関係を伝っていろんなことが起
こるだろうけど、反省すべきを反省し、罪と思えば背負うしかないし、償え
るなら償えばいいんだ。混沌とした疲労した体の中から澄んだ、僅かに整理
された感覚を覚えた。僧侶は断食の中で澄んだ意識を得るのだろうか。
勝手に思い込んだりしないで、背景を見渡す余裕が要る。子供に、私に足
りない能力だと思う。とりあえず、史子を目標に変わってゆこう。
(25)
[庭に帰る]