胡桃の庭
脱 皮 5
史子はまだわかっていないながら、黙っていた。
私は登校を急ぎながら、心の奥にあったかいものが生まれたことに気が付
いていた。なぜなら、ほんの数ミリパーセントにせよ、メモを入れたのが辻
上君で、悪戯ではなかったということが全く考えられなくもない。
私はその恐ろしい勘違いを押さえつけるべく、悪戯の線で決定を下し、以
後、努めて心の火種から顔をそむけた。
校門前で、「本当に辻上君だったの?」と、由季に詰め寄っていた。いけ
ないいけない、早くも熱くなっている。
「辻上君かぁ」と、ようやく史子が合点した。
由季は「出てきたのはそうよ。手ぶらだったわよ。今、思うと、こっそり
何かして出てきたって感じもある」と言う。
私は落ち着きを装って「何時頃?」と聞く。
「もう5時だったかなぁ、体操部終わって、ロッカーにブラシ取りに戻った
の」
「声、かけなかったの?」と言ったのは史子。
「びっくりして固まっちゃったわよ。せっかくの二人っきりだったけどね」
由季はにっこりして言う。「それに、なんて言う?こんにちは?」
「そうかぁ、気の利いた一言は難しいわね。いざというとき消極的なんだか
ら」と、史子。「それにしても、だから、辻上君がさゆみにアプローチって
のは無理があるわね。悪戯って線も無理があるし。結局、そのこととメモの
ことは関係ないんじゃない」史子が言うと、一番あり得る線で会話は落ち着
いた。史子は暗にデブブスの私が辻上君と結びつかないと言ってくれていた。
私はそのことで勘違いしそうにならずにすんだと思った。
ところが、私は教室に入る前、蒸し返すように由季が早口で言ったことが
気になった。
「無理があっても、悪戯だと思われずに気持ちを言うとしたら、無記名でぶ
っきらぼうなメモになるかも」
由季の言葉には私自身が後押しをしているせいか、説得力があった。記名
があれば絶対に悪戯だと思っただろうし、きれいな便箋でないところが生々
しい。
その日、由季は推理してみると言い、私からメモの実物を預かった。
そのときは由季が私の中の火種に味方してくれるようで、好感を持てた。
だから、用心深い私にしてはあっさりとそれを手渡せた。
私がなめるように見回した限りでは手掛かりなしだったけど、史子や由季
にも見てもらったほうが、発見があるかもしれないとも思えた。
学校に居るときはずっと、辻上君を意識せずには居られなかった。私は比
較的後ろの席で、比較的前の彼を見ようと思えば観察できる。それまで、そ
んな風に見たことはなかったけど、その日だけでも、3回も目が合った。彼
は仲のいい今井君の方に振り返ると、いつもはない私の視線を感じたのに違
いないと思おうとしたが、どうしても、彼が私を見たとの思いを払えなかっ
た。
私たちはほとんど帰りは一人でした。私は音楽部の2部で、いわゆる音楽
コンクールなんかに出ないと決め込んだ部員でした。進学校は部活もがんば
りたい人だけがんばればいいということみたいですね。深田史子は抹茶部で、
お菓子を食べるのがクラブ活動。河村由季は体操部で体育館で長身が映える。
クラブの友達は私鉄利用者や近くの寮生だから私とバスで帰る人は居ません
でした。バスで七停留所行くと、そこから五百メートル程で家に着きます。
史子は九停留所、由季は六停留所でしたから、近所の学生を同じクラスにし
てくれたのは学校の配慮だと思っています。五百メートルはちょっとだけ遠
回りになる、緑や花壇の多い公園の中を通る場合の計算です。帰りは絶対に
お気に入りの公園を通ります。
その頃から、公園のベンチに腰掛けて本を読んでいる中年の男性を見かけ
ることがありました。初めは全然気にしなかったけど、3回見かけて3回と
も同じ所、同じ服装、同じ姿勢で本を読んで、しかも表情まで同じ。その変
化のなさがかえって気を引き、かすかに記憶に残り始めます。
ところが、その日、辻上君と視線が合った印象を記憶に焼き付けたいその
日、ベンチの男は顔を上げ、私を見たのです。しかも、私の視線と合ってし
まったから何とも汚らわしく思い、足早に通り過ぎたのでした。
そんな状態だから、帰ってからも辻上君のことでほくそえんでいました。
勘違いしてはいけないとたしなめる自分は無力でした。
そこに追い討ちをかけるように由季から電話が入りました。
(6)
[庭に帰る]