胡桃の庭
脱 皮 6
「さゆみさん、あなた、気付いてた?MIDORI」
「ミドリ?」
「メモの端っこにMIDORIって薄く印刷してあるでしょ」
「そうなの?」
私は筆跡やレイアウトやらで人物が特定できないかなんて考えてじっくり
見回したはずなのに、そういう薄い印刷には気が回っていなかった。
「ミドリ文具ってメーカが作ったメモ用紙よ」
「そういうところはちゃんと見てなかったわ」
「私ね、これを使っているひとは少ないと思うのよ。メモ用紙なんて使わな
い人も多いから」
「そ、そ、それで誰が持ってるのかわかったの?」落ち着けと自分に言い聞
かせた。
「聞き込みできるほど行動力ないわよ私」と、由季は言って続ける。「でも
ね、南さんが持ってたから、一枚もらって、男子で同じものを使っている人
が居ないか、今井君に聞いてみたの」
「今井君?−−でも、そんなこと探してくれるかしら」
「持っている人はクラスの誰かにアタックしているから、心当たりがあった
ら教えてって言ったけど、興味あり気だったわ」
「そんな事言っておしゃべりな今井君だから、事が大きくならないかしら。
それって、辻上君にも知れるって事でしょ」
「そのリスクはあるけど、賭けてみたのよ。今井君は美形の辻上君のそばに
居たら自分もモテると思うタイプよ。だから、辻上君のことをよく見ている
と思うのよ」
「そうなの?2ヶ月足らずでよく見てるのね、由季さん」
「辻上君見てたら自然と視界に入ってくるでしょう」
由季の電話は何らかの進展を無理強いしているようにも思えた。本来、何
もしなければ、何も無かったことのようにこの件は消滅するものだと思えた。
次の日の登校は一人だったし、帰りも一人だった、公園の男もいたし、い
つもの一日が過ぎただけだった。家に帰るまでは。
その日も夕飯時になって由季から電話が掛かってきた。
「今井君がね。『教えるから、相手を教えろよ』って言うのよ」と言う。
「それって」私は声が上ずりそうになるのをあわてて押さえ、細く差し込ん
で来る希望の光を見ないようにした。「で、教えたの?」
「教えないわよ。それはわかるでしょって言ったら納得してくれたし」
「それじゃ分からないのと同じじゃない」と言いながらも、『教えるから』
との今井君の言葉にとらわれていた。
「それがね、ここからよ」と、思わせぶりな由季。「私ね、気付かれないよ
うに今井君を見張ってたのよ」
見張ってたといわれても、由季と今井君は教室では同じ並びでなかったか。
「そしたらね、現国の授業が始まる前、辻上君からメモ用紙を一枚、受け取
ってたのよ。話は殆どしてなかったけど」
私は辻上君をチラチラと見ていたはずだ。そんな一コマは覚えがない。由
季の観察力には感心した。
「辻上君がその心当たりの誰かってこと?」と、私は早口になっていた。
「そういうことになるわよね。そのメモ用紙を私に見せることはなかったけ
ど」
「じゃあ、わからないじゃない」と言いつつも私には十分な情報だった。
「そうじゃないわ。たぶん、今井君は分かってて私に見せなかったと思うの
よ。本当に辻上君だとしたら、それを私に報告する義務はないでしょ、彼に
とっては辻上君との仲の方が重要だから、変なことしたくないわよきっと」
「それはそうよね」落ち着きがなくなっている私より由季のほうが自分のこ
とみたいに頭が回っているようだった。
「でね、その形が、縦長で、見るからに南さんのメモと同じだったのよ!」
私は言葉をなくしていた。
「驚いちゃった。証拠はないわよ、ないけど、見るからに、さゆみさんのも
らったメモ用紙よ!」
私は「だとしたら!」と、かなり早口に言って、深呼吸した。「それなら
辻上君って可能性が本当にあるって...」
「私としてはしゃくだけど。可能性大かもね」と、由季は本当に敵対しそう
な声で言った。
私は「私は誰にも言わなきゃよかったんだわ」と自分に言っていた。メモ
のことは素直に受け止めていれば良かったのだ。今更後悔しても遅い。きっ
と悪戯してほくそえんでいる人なんて居ないんだ。
電話の後、私は心の火種がもう抑え様のないバーナーのような勢いになっ
ているのを感じていた。
だめだめ、落ち着けと、言い聞かせても舞い上がろうとする心に掛ける重
りが見当たらない。いったいどうやって抑えたらいいのだろう。こんなにも
心が一人歩きするとは思っても見なかった。
辻上君が私に気があったら、あの形しかない。人気タレントがデブブスに
思いがあっても伝えるには勇気がいるし、失敗すると私がからかわれている
と勘違いしかねない。あのぶっきらぼうなメモの切れ端は辻上君らしいかも
しれない。
自分の中の醒めた部分がしきりに抑え込もうとしているのが分かる。この
苦痛と湧き上がる喜びが恋愛の呪縛というものに違いないと思った。解放さ
れたいような束縛されたいような気分。遠くからお気に入りの男子を観てい
る感覚とはまるで違う息苦しさだ。
こうなったら、実際に確かめたいと思うけど、そんなこと臆病者の私にで
きるわけない。もはや間違いだったということは許されない運びだった。本
人に訊く以外、確実な方法はないと分かっているけど、絶対にできない。
(7)
[庭に帰る]