胡桃の庭
脱 皮 8
「私は友達になってすぐに、由季の家に一回呼ばれたことがあったの。お母
さんがジュースを出してくれたんだけど、コップに埃がついてた。それでも
構わずに注がれる。でも、そのコップは手作りのコースターに乗っている。
お母さんが心掛けるべきはコースターの可愛らしさじゃなくて、よりきれい
なコップなのよ。そういうことが由季との関係も、ご主人との関係も悪くし
ているかもしれないと思ったの。ごたごたした居心地の悪い家って由季は打
ち明けたけど、ちょっと分かるような気がする」
「由季は何を言ったの?史子に」
「それだけ。浮かない顔してたから、何かあったのか聞いたら、ごたごたし
てるってそれだけ言った」
史子は天才的勘をもつ恐ろしい少女であることを今更知った。そうか、私
がむしゃくしゃしたり、おしゃべりしたいとき、自慢気な時や卑屈なとき、
うまく対応してくれていたのだ。だから無二の親友と思える大切な存在にな
っていた。私は扱いやすい都合のいい癒し系の友達だと思っていたのに、実
は数枚上手から私を見下ろして可愛がってくれていたのかもしれない。
「私はまた、由季が炊きつけておいて、辻上君のこと、焼いてるのかと思っ
たじゃない」
「あれ?それもあるでしょ、もちろん」
「冗談言わないでよ」と、私はそのときは流していた。
ゲームソフトは買ったけど、史子に薦められるがままに買ったし、そもそ
も気晴らしが目的だったため、史子に楽しんでもらおうと思って貸した。ど
うせゲームなんて手につかない。
私の頭の中はただ、外を歩いている間に気持ちの整理をしていた。そして、
日曜日の夜中になって、ようやく決心した。やらなきゃ、もう、苦しんでな
んかいられない。
決心は小さな揺らぎにもめげず、月曜日の放課後になっても幸い、変わら
なかった。私にも決心を揺るがさない勇気と強さがあったのだと感心した。
私は日曜日の買い物歩きのうちにMIDORIの縦長メモを手に入れてい
た。それには深夜まで考え抜いて書いた短い文が書かれていた。
月曜日の放課後遅くまで私は図書室の隅で時間をつぶした。ビタミンの効
力について書いてある本の同じ行を何度も読みながら、それでいてまったく
頭に入らない状況で、白い時が過ぎた。
学校の施錠時刻10分前には校舎から出ることになっている。その時間だ
と忘れ物をあわてて教室に取りに来る人が居るかもしれないと思い、そのさ
らに10分前、暗くなり始めた薄気味悪い教室に入った。
教室の後ろには碁盤目に区切られた扉付のロッカーがある。基本的に机の
中や周囲にカバンなどを置くことが禁止されていて、後ろの鍵なしロッカー
に入れることになっていた。私は探すことなく、彼のロッカーの位置まで駆
け寄ると、『辻上』の表示を確認して、メモを素早く入れた。胸の高鳴りに
目が回らないように深呼吸しながら、それでもあわてて教室を出ると、その
まま一目散に走り、校門を駆け出ていた。
今でも思い出せます。考えた割には短いけど、確認だけできればいいって
思ったの。
『あなたですか、私のこと見てくれるのは。もしそうなら、そうだと言う
笑顔を下さい。そうでないと、私は笑顔を忘れてしまいます』
私なりの賭けでした。もう、確かめずには居られないのでした。煮え切ら
ない状態に耐える方が失うことより辛い、と、その時は思っていました。
ようやく、私は自ら思いを好きな人に告白する女性の勇気と気持ちが分か
ったのでした。大変な思いをしているんだと実感して、自分の未発達だった
部分に気が付きました。
前日の史子の観察力といい、私には感じられていないことが、まだ、いろ
いろこの世にはあるのだと思いました。「さすがは中山弁護士」という史子
の言葉を思い出すと気恥ずかしい。
(9)
[庭に帰る]