胡桃の庭
脱 皮 9
次の日の登校は史子と同じバスに乗った。私の動悸をよそに史子はゲーム
の感想を話していたと思う。私はうわの空ながら、悟られないように努めた。
強烈な後悔もあったし、実行した勇気をたたえる気持ちが私を揺さぶって
いた。史子にも胸の内は打ち明けられなかった。
メモがお門違いだったとしても、中学生じゃあるまいし、さらし者にはな
らないだろうと思い込んだ。正直、勝算があってのことだ。そう、勝算はあ
る。少し前にも辻上君のロッカーにラブレターが入っていたって話はパッと
水面下で広まったが、はじめから誰も興味を示さなかった。彼には何度もあ
りえることだろうし。メモくらいいつも誰かが入れてるのかもしれない。
私と史子の横を辻上、今井、森永の並びで通り過ぎてゆく。今井君だけ振
り返ると「おはよう」と言った。私がしどろもどろになっている間に、史子
だけ「おはよう」と答えた。
3人はそのままさっさと歩いて行くかと思ったら、辻上君だけちょっと振
り返った。私は息を呑んだが、まさかまだメモは見ていないはずだから笑顔
でなくても平気。
「辻上君、振り返ったじゃない、さゆみを見たよ」
「な、何、変な事言ってるのよ」と、私の顔は強張るやら、照れるやら。こ
んなんでは教室が思いやられる。今日、この日にはっきりするから、楽にな
れる。きっと微笑んでくれると強く思った。
実際、その日は微笑を受け止めるべき私が、授業中、顔を上げることすら
できなかった。まだまだ臆病者だ。自分から告白できる女性はまさに尊敬す
べきだ。私は一般の女性の知りえる苦しみをやっと共有できたのだと思えた。
自分のぎこちない行動を罵りながらも、全く辻上君を見ることなしに授業
を終わった私は、クラブへ向かうべく、いつものとおりせっせと身支度をし
ていた。何でこんな特別な日に平凡な行動をしているんだと、自分に幻滅し
た。
でも、動きは彼にあった。
私は視線を感じてそれを辿った。何と戸口で手招きする辻上君が居た。
『えっ、私?』というしぐさで確認すると、彼は『そうだ』というしぐさを
返した。
そのとき、まさに勝ったという思いだった。メモに私の名前は書いてない。
それなのに辻上君は私に手招きしている。それ自体がすでに私に向けられた
メモが彼のものだと物語っている。彼の身に覚えがあるから、名無しでも私
だと分かるのだ。
それでも、私は不安気な顔で彼に近付いたと思う。彼はどんどん歩いてゆ
き、外まで出てしまった。とりあえず、彼は人がすぐそばに居ないところま
で適当に歩いていった様だ。私が追いつくのを待っている彼の顔は真顔で、
ちょっと気になった。
近付くと、彼の手にメモが握られているのに気が付き、顔から火が出る思
いがした。やっぱりメモのことだ。そして、メモが私からだと分かるのは彼
だけだ。
「君が入れたの?」と彼は言う。顔がやはり真顔で怖い。
私は小さく何度か首を縦に振っていた。
「やっぱり、そうなのか」と、彼は冷静で微笑まない。「何か勘違いして
るよ君」と、イライラしたような口調だ。
『え?』と声にならない。
「僕が君にちょっかい出していると思われるのは心外なんだよ」と、今度は
怒りすらこもっている。
何か言いたいことをストレートに言ってない感じの小さな時間が過ぎた。
「先週は気持ち悪い目でちらちら見てたと思ったら、−−なぜ俺がお前を見
てなきゃなんないんだよ」
私は期待とは別のほうへぐいっと引っ張られて突き落とされたようなショ
ックを受けながらも、顔に表情を出すことすら忘れていた。
また、小さな時間が過ぎると、彼はメモをつき返して「暗いよお前、デブ
も治せ!」と言い放って足早に去って行く。
私は問題を整理する前にとりあえず、校舎まで駆け寄って、壁にもたれか
かって深呼吸してみた。でも、すぐに涙が出始めたので、さらに問題の整理
を後回しにしてハンカチで拭いながら裏門から駆け出していた。
(10)
[庭に帰る]