胡桃の庭
クマの墓 4
ふと、裏側の窓を開けた。夜の闇の中に、ずっしりとそ
れを感じた。
* *
「ちーちゃん!」雅巳が呼ぶと、叔母さんが出てくる。
「雅君、明けましておめでとう」
「あ、めでとう。ちーちゃんは?」
「居おとよ、どかんしたとかねぇ」
「宿題、ちょっと教えてもらいたかだけ」
奥から少女が出て来ると、叔母さんは入れ替わりに引
っ込んだ。 「宿題?」と、少女は冷たく言う。
「うむ、その代わり、図工、手伝う」
「算数やろ?あいは難しかもんね」
「クマは大きゅうなったろ?」
「そいけん何?」
「絵は描いた?」
「自分で描くもん。何しに来たと?」
「そいけん……ねえ」
「姉ちゃんの居ろもん」
「日記ば覗いて、けっ飛ばされたもん」
少女は微笑み、すかさず冷たい表情で
「まあよか、教えてやあけん。上がんしゃい」と言い、
髪をなびかせるようにクルッと回転して奥へ行く。−−
雅巳は秀才に頭が上がらないことを痛感したに違いない。
雅巳は帰りぎわにもちょっともめた。クマを与えた者
としての優越感がほしかった。もちろんちーちゃんは
「もう、うちんとよ」と言うわけだが。
「……ちーちゃん、おいねぇ、来週の水曜日、名古屋に
行くよ」
「何しに?」
「まえにゆうたやろ、引越しが決まったとよ」
「炭坑のこと?もう帰らんと?」
雅巳は早足で帰って来た。私が「ちーちゃんも教えん
やったろう」とつんけんに言うと、弟は「残念でした!」
と大声で言って机に着いた。私はちーちゃんが折れたの
かと思い、弟を頼もしく見直した。
それから何日か経って、私は久しぶりにピアノをいじ
りに行ってみた。ところが、そこには誰も居なかった。
お向いのおばさんが私の声に気付いて窓から声を掛けた。
「由美香ちゃん、誰も居らんよ、みんな病院よ。智春
ちゃんが上の坂で交通事故!もう三日になあよ」
「ひどかと?」
「頭打ったらしかよ」
「なんしよって?」
「知らん。ダンプカーによ」
「ダンプ!」と言いながら、体がブルブル震え始めた。
「ほんなごとねぇ、炭坑は潰るってゆうとに、今ごろ石
炭ダンプに」
「どこの病院?」
「町立病院?」
そこは近い。私はすぐに弟を連れて病院へ向かった。
弟は心配そうにいろいろ訪ねる。私はその度に「知らん」
ときつく言う。二人とも全く動転していた。
ちーちゃんはそこに居た。家族みんなが居ると思った
が、少女の父親だけだった。他の人はたった今帰ったら
しい。
少女は眠っていた。頭と手と膝に怪我をしたらしく、
ダンプから避けてこうなったと言うことだ。頭は問題だ
が、既に専門医を招いて検査したところ、大丈夫という
ことだ。
「手は?」と、私は小声で訪ねる。
「小指は殆どだめ」
その一言以上は言えないようなそぶりだったし、私も
それだけで十分にいたたまれなくなった。
私と雅巳はすぐにそこを出た。二人ともホッとしたの
が正直な気持ちだった。ダンプに潰されたという想像も
つかない事態を目の当たりにすることはなかった。雪が
降り始めたので、私達は急いで帰った。
「雅巳、ちーちゃんの小指は……」
「うむ?」
「ピアノは弾けんね」
「うむ」
かわいそうでたまらなかった。目の前で鉄の怪物が牙
を向けたとき、どんなに怖かっただろう。私は今度は痛
ましさに震えていた。
家では父母が引越しの仕度をしていた。出発は四日後
なのにと思っていたら、私の荷物だけでもこまごまと大
変だった。
私はそこそこの学校へ編入できる事が決まって、何も
懸念することがなくなった。向こうでは近所の人とも親
しくなって、方言を覚えて元々そこの人間のような顔で
振舞う。今に友達がたくさん出来て、都会人面して百貨
店などで買物したりして……などととりとめもなく確認
するのはやっぱり不安なのだろうか。
D
[庭に帰る]