胡桃の庭
ロマーナのページ 5
−−「ロマーナ、けんかでもしたのか?」と、開けっ
放しのドアから彼は通りざまに言う。「あの子、元気な
かったぞ」
「また元気になってくれるわ。ね、お兄さん、彫刻うま
くできないみたい。こんなになるし」と、ガーゼをあて
た指を見せる」
「しょうがないな。すぐにできてたまるかよ。あれは美
術である前に技術だ。もうすこし素直になったら教えて
やるよ」
「まあ!……そこ閉めて」
>< ><
6月にはいった。ソフィアとロマーナは別れの日を恐
れるように、毎日、共に過ごす時間が多くなった。もち
ろん、月曜と金曜の午後、ロマーナはブルーノの所へ行
くことを欠かさなかった。
日曜日、ロマーナは早いうちからソフィアを訪ねた。
玄関まで行くと、奥からソフイアの声が聞こえ、それは
次第にちかづいて来る。ドアが開いたと思うと、赤い涙
目がロマーナを見て、「おはよう」と言う。
「どうしたの?」
「ハァ〜ッ……やぶいちゃったのよ」と言うと、ソフィ
アはどんどん歩いて行く。「ねえ、ねえ、どうしたって
言うの?」
「私、お母さんの上等な服、つい着たくなって、デザイ
ンがいいの、だって私の部屋に置いてあるんだもの。あ
んなのが似合うようになるのも悪くないっておもってた
ら……だってよ、ロマーナ、安心してそのドレスに手を
つけたのよ。なのに、用もないのに部屋へやって来るじ
ゃない、お母さん。私にはあわてて脱ぐ必要があったの
よ。だけど、それが原因で、ドレスは傷ものになってし
まったわ」
「叱られたの?」
「……あなたに負けない位、いい子になってたのよ。お
皿を洗うんだって急にうまくなったと思うの。お母さん
は、だからこそ私を叱らなかったんだわ。でも、あの服
を持って悲しそうにしてるのよ。……ああ、私はあなた
のように早く大人にはなれない。親孝行なんてまだまだ」
「あんなこと言ったからって私、大人じゃないわよ。ー
ーあなたこそどう?、叱られずにすんだことを喜ばない
なんて……」
二人はいつのまにか学校へ来ていた。
「朝、とぼとぼ歩くと学校へ来る。癖ってこわい、ちょ
っとした行動を支配するんだもの。ああ、でも、今日は
ずいぶん早いのね。朝はお勉強じゃないの?」
「だけど、ソフィアの言うとうり、ミラノって遠い」
「でも、ベルンより近いわ」
「サンマリノよりずっと遠いわ」
「……そうね、遠そうな気がしてきた」
「私、ほら、その山の頂上からキャンパスをふりまわす
わ。きっと小さくて見えないんでしょうね、ミラノ一高
い所から見てよ」
「……ええ、顕微鏡でね」
学校の北は木立だった。小川や小路もあって、二人は
ここを歩くのが好きだった。
「ああ……ここともお別れね。街の人になれるのかな私」
「ソフィア、あの日から物語りを聞かせてくれないわね、
私がひどいことを言った日から……ずっと後悔してるの」
「まあ、馬鹿馬鹿しい話よりちゃんとした話をつくられ
るようになってからでないと貴方の絵と釣り合わないわ。
あなたはいいこと言ってくれたわ。あなたは私がすでに
十六であることを教えてくれただけよ」
「もうずうっと前だけど、私がここで絵を描いてた時、
−−ほら、林の奥よ、女神の娘よ、今がチャンス、早く
描かないと見えなくなるわよ。−−あなたはそう言った。
本当は見えなかったんでしょ、私には見えないものは描
けなかった。でも、今更、見えるような気がするの。心
の目にうっすらと精霊が見えるのよ。私にも創造力が育
ってる様なの」
「ロマーナ、私は子共の頃に書いた詩を読み直したの。
何か違うのよ、今と。ロマーナ、私達はようやく大人の
目を持ったんじゃないかしら。夢を見ている時じゃなく
て……少しずつ覚めて、夢を思い出すことができるよう
になってゆく時じゃないかしら。人形の髪を解いて遊ぶ
時代が過ぎ去るように、私はくだらないお話をするのを
やめるの。あの時、あなたはこう言ったわ。−−私には
見えないものは描けないしキャンパスに落書きしたくな
いの。−−でも、そのあなたが今に見せてあげられるよ
うになるんだわ」
「そうね、そういう物をもっと冷静に見詰めることがで
きそうよ」
「アハッ、ブルーノにむしろ、いろいろ習っているんじ
ゃないの?」
「……ええ。−−そうそう、十六コマの漫画を見せても
らったわ。62点のテストペーパーなの……それが風に
舞って、池にヒラリと落ちて、見えないくらいの波紋が
広がる。……一番好きな科学で62点は悔しい、だって。
紙切れの動きがとてもいいのよ。私、今まで何を勉強し
てきたのかなぁって思った。見習わないといけないわ」
「あなたが教えてたんでしょ」
「もちつ、もたれつ」
「!……ところでロマーナはブルーノのこと、どう思っ
てるの?。あの、教卓の列の前から三番目さんより素敵
だって思ってるんでしょう?」
E
[庭に帰る]