胡桃の庭
ロマーナのページ 8
「姉ちゃん!あの大きな家の人、引っ越したって」
「え?」
「ほら、車椅子の……」
ソフィアは片付けもそこそこに飛び出して行った。小
川の脇を駆け上がり、近道すればそこにはすぐに着く。
ブルーノの家には人気がなく、門扉にはり紙があるだ
けだった。下唇を噛んでいた少女は、その数行を見ると
開いた口がふさがらなくなった。
『いったいどういうつもりよブルーノ。結局、私たちは
おしゃべりできなかったわ』
向かいのうちの婦人が表に出てシーツを干しはじめた。
「こんにちは、おばさん」
「おや、ソフィアさん、お出掛け?」
「あぁ、いえ−−ここの人、遠い所へ行ったんですね。
あんな所で音楽の勉強ができるのかしら?」
「勉強じゃないよ。あっちの大学でチェロやるんだって
よ。よっぽど待遇がいいんだろうね。まぁ、もともと、
こんな田舎、あの男の子の療養だったんだろ」
「そうですか……」
放心のソフィアはただ、庭の花に見とれるしかなかっ
た。目で追っていくと、玄関の扉が薄く開いている。
招かれることがなかったその中に入ってみたいと思っ
た。扉まで歩み寄り、ゆっくり開くと、ガランとしたリ
ビングが見渡せた。
「何も言わずに行ったのね、ロマーナに、私にも」
部屋の隅にはごみのように雑誌や本や箱が寄せてあって
明らかにスケッチブックあった。吸い寄せられるように
歩いてゆくと、端切れのような物も積んであって、不要
物の集まりに違いなかった。
興味はスケッチブックにあって、それを引っ張り出す
と、小箱が崩れ落ちて中身がバラバラと散らかった。や
れやれと思いながらも中をペラペラめくっていった。静
物のデッサンが多く、形を正確に想像できる基礎が養わ
れている風だ。「全部失敗」と最後に書いてあるのも向
上心が伺える。もう一冊引っ張り出すと、そこにはたっ
た一枚、ロマーナが描いてあった。妬けるが、まぎれも
なく、ロマーナが簡潔に書ききってある。
「いきなり地の果てまで行くことになるとは。思い出は
持っていくと辛いから置いてゆく」と書いてあるのも少
し妬ける。
「お別れってそういうものかもしれないわね、ブルーノ。
私はロマーナのような友達を新しい町で見つけるべきね。
ロマーナを忘れるんじゃないけど、ロマーナでなきゃい
けないなんて思うのはいけないよね」
ソフィアはそのスケッチブックだけロマーナに持って
行こうと思った。適当に散乱した小物を小箱に戻すとき、
まだ新しい木製の万年筆を見つけた。手にしたソフィア
は、その、”Bruno”の刻み文字を人差し指でなぞ
った。『神様が私に下さったのよね、決っと』
−−「あそこは鉱山のオーナーの別荘よ」と、ソフィ
アの母は昼食のテーブルで言った。「一時的に貸してた
様なの。結局、あの家に居たのは半年程度かしらね」
「姉ちゃん、ミラノってすげえ街なんだ、ボーイフレン
ド、うんざりするくらいできるぞ」
「まっ、それって慰めてるつもり?私はこのペンで勉
強するのよ、なんか、すごく、やる気、でてきた」
「絵の勉強?」と、弟はストレートな発想。
「もちろん作家になるための駄作の積み上げよ」
>< ><
ソフィアが思ったとおり、病室のロマーナは知らなか
った。それで、痛々しい面持ちでその情報を受け入れる
ことになった。彼女はその簡潔にして完璧に描かれてい
る自分を無言でずっと眺めていた。
ソフィアは「思い出は置いていく」のくだりが物悲し
く、声をかけなければならなかった。
「リオデジャネイロはともかく、アルゼンチンはヨーロ
ッパ音楽に疎いのよ。ブルーノの父さん、音大の講師で
しょ、素晴らしい音楽を南米に伝えてゆくなんて、とて
も意義あることよ」
H
[庭に帰る]